ものではないから、自分免許の画法である。それでよければ――といふ一節があつた。
 先生はこれをすらすらと何のくつたくもない心のまゝに記された感懐だらう。
 が、この感懐を率直に投げ与へられたぼくとしては、鬼一法眼が六韜三略をさづけるからといつても却つて動じない。それ程、鏑木さんの平素こゝろの素直な、透き徹つたありやうに対し、今更ながら親愛を新たにすると同時に、敬服したのである。
 鏑木さんはその意識的な好みからいつても、万事に気取りやもつたい振る感じを喜ばない方であるが、といつていくら意識を以つて撓めたからといつても、この「気取り」や「もつたい振る」感じなどゝいふ、いひかへれば、大なり小なりひとの己れに許すところある息吹きは、生得虚心の仁に非ざる限り、好んでいぶさうにも、附焼刃にいぶし切れるものではない。――然るに鏑木さんは、全然それのいぶしつくされてゐる方である。
 どうかすると御自分を全く何とも思つて居られない方かもしれないのである。たゞ美術にいそしむ御自分をいとほしむ以外には。
 平素座談の折ふしにも、鏑木さんは目を細くされて回想しながら、昔よく屏風などをかきながら、そのわたりの板の上で、その日の急がれものゝ新聞さしゑを描いたものだ、と懐しみながら、私はさしゑの出のせゐでせう、どうも上野の出品ものといつたやうな仕事よりは、さしゑ風のものがかきたくて仕方ない、と笑つて話される。
 ぼくがこれを特にこゝに云ふのは、鏑木さん御自身は知るや知らずや、世間には、常に絵画世界の一隅に「さしゑ」対「ホン絵」といふものゝ対立・相剋があつて、「さしゑ」は堕しめられつゝ「ホン絵」が良いものとなつてゐる。本来絵画である限りその本質に於てこの二つは相分るべきものではなく、殊に「ホン絵」などといふをかしな名の画式はそれが特別に存立すべきものでないに拘らず、事実上では、その存立ありと見なければならない状態である。
 といふのが、一方に「さしゑ」といふ、所詮堕しめられるがまゝの画式がまた堕しめられる相貌のまゝに、現行し存立するから――この対照が自然と双方の兄弟墻に鬩ぐ風の現象を招致するものとなるのである。
 石井鶴三の大菩薩峠が斯界の近い歴史の上に一線を劃したのも、一つには勿論鶴三のその作に対する構へなり作効果が正しかつたに依ることはいふ迄もない。しかしそれでは鶴三の構へなり効果が副業とし
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