「汚ない」ものは一つも無い。明石町の秀人の如き、如何に綺麗な澄み渡つたものだらう。その人には手にさはつても少しもあぶらめいたことがなく、かいつくろつた両腕のわき、乳や、胸のあたりにも、恐らく明石町の人は、汗をかいてゐない程だらう。
 それは確かに「美しい」一つの欠くべからざる要素である。
 たゞ円朝像には、両手に持つた湯のみにもそのこつくりとした重さと同時に手の皮膚が感じる湯呑の温度、互ひのつや、或る埃、或る汗までも感じられて「美しい」以上に「本当」だつたし、ぼくは一葉像で最も感服したのはその服飾の、胸から両手、胴体へかけての、作者の「眼」といへるものであつたが、あの絵を見てゐると、そこになんどりとした女人の体温を感触して、到底この作は、たゞ事でないと思はしめる。
 そして円朝像にはその「只事ならぬ」感銘が更に画面くまなく充ちてゐたと思ふのである。円朝の頭部の重さ、その丸さ、その肉付けには、昔の彼の伎楽面がカンカンの木材でゐながら猶千古乾くことなくしつとりと人肌の「汗」をたゝへてゐるやうな、それと同じ肌合ひがある。
 あの作品は鏑木さんの画いたに違ひないものである。
 しかし「鏑木さん」以上の、否、以上も以下もない「鏑木さん」といふ個々性に関しない、それよりもぢかの、ニンゲンの不死像だといふ、右の意味である。
 そこで恐れ気もなくいへば、先生の再び三度びこの円朝像の「汗」を画いて頂きたいことを。先生はどうかすると余り先生の美しい神経をいたはり、完全無欠の趣味性に澄み渡るあまり、その写されるニンゲンを清掃なさり過ぎはしまいかと思ふ。
 鏑木先生に向つてこそ「汚ない」絵をかいて下さいと非常を[#「非常を」に傍点]懇望出来る、日本画壇――日本画洋画をこめて――の、「綺麗」さは百尺竿頭を極め尽した画人だと思ふ。――暴言罪多。ぼくは切にこの感じを先生に対して抱いてゐるものである。

        三

 次の一節はこの書きものをなすに当つて一番最初にぶつつけに誌した未定稿であるが――ぼくは鏑木さんのどこに牽かれるのだらう? それは勿論鏑木さんの絵と、同時に、その人柄に牽かれるのだと思ふのである。
 されば鏑木さんの「人柄」とはどんなものだらうか。
 人には喜怒哀楽がある。ぼくは鏑木さんの喜を知つてゐるし楽を知らないことはないと思ふ。鏑木さんは土田麦僊を失つた時にその報を受く
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