精一杯の計算であつたらう。いまこの言葉に代る、今の時勢にそつた言ひ方をしようとすれば、突差、何といつてこれを表現して良いものか、判断に迷ふばかりである。
 清水定吉は明治廿年代の東京の大盗であつたが、捕縛の後、裁判所で白状していつたことに、自分がこれまでに盗んだ金銭のたかを年月に割当て、勘定して見ると、わづかに[#「わづかに」に傍点]一日平均四十五銭の収入にしかならぬとボヤいたさうである。この「わづかに」に点を打つたのは、清水定吉もさう思つたものだらうが、こゝは特にぼくの注意である。確かにわづかだ。「わづか」どころではない、一日四十五銭平均ぐらゐの取り高で――四十五銭といへば、やつとそれで買へるものは、今、ワラ半紙一枚であらう――あの大盗を働き、殺人を犯して何になるのだらうと、いぶかる感じの起るのが当節である。しかしそれを追つかけて直ぐにまた、今から五、六十年前に一日平均四十五銭をせしめたならば、これを現在の金銭価格に引移せば果してどの位ゐの高値になるだらう。かう思ひ返すことによつて、これは一体どう多いのか、どう少ないのか、さつぱり見当のつかない、混迷に陥る。
 同じやうな具合で、どうでも良い盗賊の取り高などではない。真面目な昔の計数に関する事々が、いづれも今に至つて比較見当のぐらつく具合になつたとすれば、これはゆゝしい一つの不祥といはなければならない。
 昔の「百円記者」ともいへば綱ッ引の人力や馬車に乗つて、銀座の新聞街を、肩で風を切つて行つた豪勢なものだが、久保田米僊ともあらうものが、たつた百円の月給で、わざわざ京都から東京の国民新聞へ出て来る(明治廿三年)などは、どうしてだらう。などといふ具合に、昔の史実が曲つて見えるやうになると、お互ひ今日のわれわれのカンネンは、余程、まゆ毛につばをつけて、自戒につとめなければならぬ。米僊が国民の「百円記者」になつて東京へ招かれた、これと同じ年に、浅草公園には、十二階が総工費五万五千円を以つて出来上つた。これも正史である[#「これも正史である」に傍点]。――十二階が五万五千円? あれがそつくりで?と、いくら「自戒」してもつい吹き出したくなるのは、困つた世の中になつたものである。
 いまの月刊雑誌は相当お寒いヘラヘラなものが、定価廿円、卅円をうたつて、たれも怪しまないのに、われわれ同人となつて「芸術」といふ雑誌を定価一円で出した時には――これは元々売らないでも良い雑誌のつもりで、絵の印刷などを豪華版にやつた――、新聞の雑誌評で特に定価のことを問題にされたものだ(大正七年)。これはつい先ごろ谷崎さんの卍《まんじ》の値段(一〇〇〇円)が問題になつたことゝ思ひ合はせられ、モノの値上りの比率が、このさきもこの割で時の経過と正比例してひろがつて行けば、遠からず「この本はいくら?」「ヘエ、一万円です」といふことになることも考へられる。笑話であつてくれゝばよい。


     八、陛下

 昔の人は「……高価なるろちりめんを黒の五ツ紋に染め、無双仕立にして、云々……夏羽織としてこれほどぜい沢なるものは他に匹敵を見ず。八尺四丈物にて一枚を仕立て得るとして、この価格は白地にて十三、四円。染め代は三円より五円なりといへば、仕立て揚げまでは、ざつと廿円近くの費用を要するなれば、着物に有り余れるぜい沢の人ならでは、かゝる高価の羽織を着るものあらざるべし。」(明治廿八年版、日用百科辞典)
 かういふ、今日の感じでは全然想像も付かない「ぜい沢」をやつた人もあつたやうである。
 ――折柄物価の※[#丸公、33−4]再認識の問題が街の実地の俎上に乗つて来て、銀座の露店では率先して(昭和廿二年五月三日、新憲法施行の日から)全商品の一割引きを実行するものもあるといふ。
 良い意味で世の中はこの「五月三日」を境に、立変らなければならないだらう。
 この日、われわれの陛下は、「象徴」となられて、国政の現役線を退かれ給ふ。象徴となられる陛下に対しては、新しい、より親しい日本国民の敬愛があるはずである。陛下は五月三日の式典に当つて、雨外套を召され、左手に御自らコーモリ傘をさゝれ、右手に中折帽をとつてこれを打振られながら、三年前まではこの国で絶対に想像さへ出来なかつた「陛下」――生き生きとして新鮮な、われらの陛下のカタチで、壇上から人々に向つてあいさつなすつたが、ひどくこの朝は寒い、気温が平常より十度も低かつたといはれる日で、式の始めから終りまで冷雨小止みなく、広場に集まつた者は陛下の出御までは、何れも傘をさしたまゝ、外套の襟も立てゝ諸員の式辞あいさつを聞いた。尾崎さんはこの雨は天の戒めだと考へたといふが、恐らくその通りであらう。五十八年前の旧憲法発布の日、明治廿二年二月十一日は、夜来の雪で、道がひどくぬかつてゐたといふ。それにも拘
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