故郷」は無いのではないか、などと思つた事があります。近ごろの心持では、決してそんなことは無い、「故郷はある」と思ふやうになりました。その「旧山河」といふことをいひますが、「旧人家」で良いと思ひます。
 東京は刻々に変じてメチヤメチヤになり、土地の名も無くなり、最近では京橋三十間堀の如き又も掘つくり返されて、私の本籍のありますその辺りの所番地は、三度び転籍させられるかもしれません。
 風情もけしきも、この塵埃の都会はあつたものでありませんが、ただ、如何なる変動があらうとも、東京が樹々山々に囲まれることはありません。
 町を歩いてゐて「山」の見えるわびしさに出あふ地異転変は無いと思ふ。
 恐らく東京以外の方達は、この土地にゐて、何が「寂しい」といつて、東西南北全然山地の無い日常日々の寂しさが、一番いけない[#「いけない」に傍点]ものではないでせうか。――私にとつては、その反対が一番いけないのです。
 私は「海」を初めて見たのは、たしか十二歳の時でしたが、学校の遠足で銚子の犬吠崎へ行つた時でしたが、道が砂丘のやうなつま先上りに窮まつたところ、突如としてつまり太平洋の「波」が見えると、その波がしらの白さに、初めそれが何であるか、了解がつきませんでした。段々とこれが本当の「海」であり「波」であることを知つて、文字通り固唾をのむ心持ちでした。(その時の印象は今だに「波」だけです。燈台も何もおぼえありません。その代り「波」は今だにありありとはつきり眼底にあります。)
 また山を見たのは――これも学校の遠足が日光、筑波山などと、順に山に馴れさせたとは思ふが抑々「山」らしい山を見たのは、二十歳に近づいて京都へ行つた時が初めで、東山に絹糸のやうな霧雨が降りこめてゐました。そして間もなく東三本木の宿へ着いてから雨が霽れると、それまで何も無かつた空からみるみる紺青色の比叡山がぬつと現はれて来ました。これにドギモを抜かれました。その時の比叡山の一角をかすめた空の澄んだ青さは、死んでも忘れぬ印象でせう。
 文字通り「他国」の空です。東京には想像をも空想をも絶して夢にも、無いことです。
 私の書きものは一言半句正に何にもならない徒事徒言に過ぎないと思ひますが、これに「滑稽」ともいふべきものありとすれば、日常、夢にも右にいつた「山」とか「海」とかいふモノ[#「モノ」に傍点]を感じたことのない塵埃の中の人間が誌した雑記として、あるひは多少その塵のカンジは出てゐるかも知れないといふことです。
 本書を手はじめとして私は私の絵画以外の許す時間の範囲で、その塵中記ともいふべきものを多少つづつておかうと思つてゐます。一つにはさういふものを文章でつづつておいていい年齢にもなつて来たかと思つてをります。
 人物論は手許の稿の、近年に書いたものの中から小杉、鏑木両先生の分を挙げ、岸田劉生の特に日本画について誌したものを添へることとしました。
 これだけに特に止めた上に別意あるわけでなく、また、風俗に関する本の中にこれを入れたについても特別の意味はあるわけではありません。
 両先生と岸田についてはいはば「材料」をぼくは内から隔意なく書く事が出来ると信じてゐます。
 風俗についても大体いはゆる「隔靴掻痒」でなくかいたものを集めたと思ふので、「人」についてもさうして書いたものを交へておきたかつた、ぼくの「本をこしらへる神経」が為せる業だつたらう。
 突然人物論の交つたのは、小杉さんと鏑木さん――ぼくはこの両老を人に語つて「オヤヂ」と戯称することがある――にはひよんな[#「ひよんな」に傍点]書物の中に御名前を交へたことを、おわび申上げる。

 本文校了の日たまたま一ノ酉に際会し友人M、N、N三君も来り合せしものありし故天候も良し夕刻より長駆大鷲神社に赴きしが戦乱慌忙の後初の酉の市詣で也。
 果して池の周りに多年この日は恒例なりし見せもの小屋一軒も客を呼ぶものなく、神社より吉原廓内へかけての人の出足も少かりしがこれは時刻の早かりし為もありとみて、廓内の模様が家並低く一体に不ぞろひにして提燈など高く掲ぐといへども京町も揚屋町も裏通りは全く暗くうそ寒きはこの土地に初めてみる景色なり。
「復興」せし娼家の家々は皆洋館まがひの小さく四角きバラック風が主にて屋内螢光燈などを点じ、門々に「女給サン募集」と記しあり、「女給サン」が遊女なるべし。
 家のうちに隠見する彼女達はいはゆるアップの飾髪に紅の造花などかざしたる形、ヰナカびて見ゆ。模様ものの和服多し。(現在の玉ノ井・鳩の町とさも似たり。)
 酉の市の売りものは相変らず前年と同じにて盛んなり。とうの芋一たば六十円、三十円、二十円と区別して正札にて示し、熊手は小形張子細工のもの二百五十円と称す。以前は二三円の品なりしとおぼゆ。神社の「はきこめ」は
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