注意しなかつたが、とに角これは明治のカナモノ細工の一つで、その末期のものとはいつても、今となれば存外そのアラベスクなぞも時代の風味のある少数の遺存物に当るだらう。
――それよりもぼくは、この洲崎のカナモノを見ると同時に、同じものでも吉原の大門の明治味感を直ぐさま思ひ出してゐた。震災の当時たれだつたか名のきこえた人が真先きにあの破片をかつぎ出した(?)とか聞いたし、近頃の消息ではまた、残片を時節がらツブシに出したとも聞いたやうだ。これは元来ちやんとアーチ形の「門」になつてゐたもので、作も却々良く、龍宮の乙姫様がアーチの弓形の真中に立つて夜空に電球を捧げてゐたのをおぼえてゐる。これは文献で見ると明治十四年の作とあるもので、
「総て鉄にして永瀬正吉氏の作に係る。両柱に左の一聯を鋳出せり。
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春夢正濃満街桜雲
秋信先通両行燈影
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是ぞ福地桜痴居士が当時豪奢の名残りと聞えし。」(明治四十一年版「吉原名所図絵」東陽堂)
洲崎のものは何れこの模倣に相違ないものである。吉原のカナモノ細工ならば、さういふ庶民美術品の一つの代表として伝はる価値のあつたものである。洲崎の標識塔も、震災前あたりはあれで矢張りアーチ形をしてゐた。今あるのは、その一部かも知れない。
ぼくが昔、家人から聞いたところに依れば、東京も川を向うへ渡れば別世界で、遊廓も洲崎は東京をかまはれた東京者の行くところである。従つて気風が荒く、娼妓などもそれに相応した渡り者が陣取つてゐて、往々にして雇人の方が主人よりも鼻息があらい、と。
しかしそれは「昔」の東京又は洲崎のことであらう。今は「東京」も「洲崎」も変つたから全然話が別と思はれる。――それにしても、何処かに昔なりのぞんきな、また伝法な気風はあるものか、ぼくがつい先夜の一二の発見にしても、それが吉原・新宿・品川・玉の井……何処とも違つたキメの粗い古風な感じの有つたのは、とある曲り角で、しやぐまに結つた真紅な装束の女が帯しろはだかでいきなりばたばた横町から往来へ出たのに出逢つたことや、ある小店の玄関先を見るともなく見ると、そこに五六人の娼妓がたむろして、あるひは髪をかき上げてゐる、一人は立つて桃色の着ものの前を大きく引つぱつて振りながら合せてゐる。その他、ゴチヤゴチヤしてゐる有様が、とんと、国芳の絵本かなんぞを見るやうで
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