後天の収穫によると共に、一半は、さういふ天資だらう。
 ひよんなことからいきなり小杉論の中圏に筆を入れたけれども、鏑木さんがある時「人と話をするのに相手方の立場なり心持となつて話をしたり聞いたりすることはむづかしいものだ」これを心がけようと思ふといふ旨の述懐を記されてゐたことがある。小杉さんもかう思はれるや否や、ぼくの見るところでは、小杉さんはよしんばこの反対にしようと考へても、それより一足先きに、行為心操は「相手方の立場なり心持となつて」人と話をする人である。話をして来た人である。
 小杉さんは相手の強さ[#「強さ」に傍点]或は不正不当に対しては十分に靱ふ訓練を持つてゐるけれども、相手が弱く殊にそれが正当な場合には、見る見る「負ける」面白さを持つてゐる。相手が強く且正しい場合には襟を正して迎へ、若いものに対してさへその履をとることを辞さない、心を無にすることを――これは「人」に対する相対的でなくとも、予め「天」に対して――識つてゐる、間違ひの無い人物であるが、涙もろい話など持つて行けばほろりと陥落するをかしな人である。ひとに騙されたことなどもあるであらう。人を騙すことは無い人であるから、被害は決して大きくないのである。岡倉覚三さんは、人は媚び諛らふものを避けるといふけれども、阿諛者は可愛いもんぢやないか、と、豪然嘯いたといふことだが、小杉さんにはさういつたべらぼうな危険性はない。壮年にはこの種の冒険を猟奇したことはあつたゞらう。
 小杉さんは歴史を引くり返すとか、或は芸壇の屍山血河を大刀提げて乗り越えるとかいつたやうな、闘気熾んな「大家」ではないであらう。これに反して人間的、滋味豊かな、慈味を人生に学び取つた「賢人」の一人と考へる。小杉さんのやうな学道を採る人は画壇にこれから先きまづさう第二第三とは容易く現れまい。その学道――いひ替へれば小杉さんの人生を学び取るためには、これぞ「修養」といふ字でいへる、卑近にいへば「本を読む」修行が、また、絵をかくことと並んで並々ならぬ期年を要するからである。小杉さんの学問はその十中八九まで古代支那に参ずるところに基礎があると思ふ。(これに加ふるに和文。――却つてヨーロッパの脈は、殆んど少ないところに、今日から見れば特徴を帯びた。)芸文のものよりは史学に大多数の興味もあり、ゆかりも深かつた「修養」ではなかつたか。ぼくは画壇の人々にはいふまでもなく、その他の人から推しても、小杉さんまで漢籍をよくこなして読み込んでゐる人は、異例になるだらうと思つてゐる。これを「趣味」や嗜みと見ようには過ぎるのである。小杉さん自身は決して「学問」とはいはないだらうけれども、寸毫ためにする読書でないところにいはゆる「書巻の気」が直接その人の血になつて、小杉さんの内に流れてゐるし、小杉さんの外へ流れる。相当浩瀚の史籍も小杉さんが愛情を籠めてその話をするところを聞くと、珠玉のやうに、いつも掌の中に存するやうだ。今後となつては、この「型」は益々無いことだらうし、今日に見るも、小杉さんの如き籍中の人は、稀である。
 誰でもおよそ生活を五十年の上に持ち越さんがためには――殊にこれをピンと張つて――何がな一本勝負で食ふか食はれるかに立ち向ふものがないことには、持てないと思ふが、恐らくは退屈か、倦怠か、老衰か……に堕ち込むのが末で、なかなか時間と精神とをまつたうに永くは人は持ち越しにくいものと思ふけれども、立ち向ふ目標と定めたものが大きく、困難ならばそれだけ、その人はそれだけしつかりしてゐるやうである。――小杉さんは画学については、ヨーロッパでルーベンスあたりのものを見た時から指針を感じて、一般の洋学するものは「油絵」のアブラくさゝを真似にも身に付けようとするのを、小杉さんはこの「アブラくさゝ」を仕事から逆に抜くことに目標を持つたやうである。ぼくの耳食がもし間違ひだつたとすれば取消すけれども、小杉さんは、たしかルーブルでルーベンスを見て「これは日本にはいけない」とつくづく感じたと話されたことがあつた。僕はさう覚えてゐる。この「日本人にいけない」の「いけない」は「行けない」の意味も伏在するだらうが、正面の意味は、「不可」の「いけない」であつただらう。
 脇本楽之軒氏は世界美術全集の(第三十二巻。第七十六図)小杉作「水郷」について「向ふ鉢巻の漁夫が小舟の中に立つて網を始末してゐる図で、シャヴァンヌの画趣があるとは、第五回の文展出品当時、某々批評家等が筆にしたところ……」といつてゐるが「シャヴァンヌの画趣」は当時作者の筆端に寧ろあるべき自然だつたのではないかと思ふ。小杉さんがヨーロッパへ行つて捕へた「画趣」の一つの粉本は、シャヴァンヌが一番身近かつたらう。
[#「未醒作「うがひ」見取図」のキャプション付きの図(fig47644_01.
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