醒の――肌合ひに適さないことを身を以つて感ずるに至る実感までには、「苦しさ」の鞭が、十分、小杉さんの骨身を徹した、その上での、いのちをかけた頓悟だつたと思ふ。仕事から「アブラ」を抜くことは。
 小杉さんは諧謔を以つて自分のハゲアタマのことを、渋々と、しかし面白さうに、宴席の芸妓どもなんかに、話すことを常とするが、ヨーロッパでボルドーの宿屋かどこかで朝起きて、洗面台に向ふといふと、梳る櫛の歯にからんで髪の毛がぞくぞくと脱ける。「――そんなわけで、段々無くなつて、こんなになつちやつたんだよ」アハ……と小杉さんは笑ふ。が、フランスで大々の油絵にひとり取り囲まれながら、毎朝髪を梳くと、束になつて頭の毛が脱ける。その環境と分別の中で断想した油絵否定、リアリズム否定が、作家「小杉未醒」の骨格を新規まき直しにする心であつたらうことは、推するに難くない。しかも意識は「否定」したはずのリアリズムを小杉さんが実は魂の底まで食ひ込まれて、荷ひ帰つたことは、知るや知らずや。――小杉さんは満谷さん(国四郎氏)と同行の旅であつたが、満谷さんが「歩に返つて」向うの作家(この個有名詞は忘れた)のところへ仕事のABCから基礎をたゝき直しに「弟子入り」しようとした時、小杉さんはいつたといふ。「それもいゝが、お互に日本ではシヨセイではない。一考は要るな」。言葉は違ふであらうが、意味はかういふことである。
 やがては日本の大家を約された人達のその頃フランスに洋学した姿として、満谷さんも面白いし、小杉さんも面白い。小杉さんは「見識」を以つて――といふのは、必ずしも「手」からは行かずにアタマで――指針を掴んだのである。
 そして小杉未醒は「画道」を発見して外国から帰つたのであるが、「小杉未醒」はそこで完成した。すでに漫画家未醒でもなければ、さしゑの未醒でもない。竹の台五号館の壁に左右上下両手を拡げても猶余る画面の行く人となつたのである。――ぼくはこゝで小杉さんの発見かつ完成した「小杉未醒」が、作家として何を一番獲たかといへば、大作の行く斯道を掴まへたことが、一つには画壇へのこの人の寄与であると共に、その人自身の十分な加餐であつたと思ふ。小杉さんの天性備はる装飾才能を大軌道へ乗せて押し出す恰幅を備へたのであつた。ぼくはこれを、小杉さんの第二期「中期」と見る。壮年期としても良いが、これが次の「放庵」に変るまで続くものである。会でいへば春陽会になるまで、時でいへば昭和になるまで、作者の歳でいへば四十代一杯まで。
 あるひは絢爛とか、くだいていふバツとした、また颯爽とした……小杉さんの「時代」は、この「中期」にあつたであらう。配する大観さんがあつたので、そこに繰り展げられる豪華版の東海道道中なども、未醒伝の貫禄にかけて荷の勝つものではなくなり、昔二十四の時(明治三十七年)戦時画報社からその腕章を付けて満州の戦線へ派遣された時には、
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未醒ガ此行ノ携帯品中、尤モ用ヲナセシハ兵卒ノ使フ所ノあるみにゆむ製ツル付キノ行厨器ナリ。飯ヲ容ルル二三食分悉ク提ゲ得可キハ第一、第二鍋ノ代リトシテ湯ヲ沸ス可ク徴発ノ南瓜豚肉ヲ煮ルベシ。第三蓋ヲ煙草盆トシテ煙管ポンポンナドノ便アリ、第四舎営ノ夜半ニ筆ヲ揮フトキ蝋燭立トスベシ、第五ハ即チ枕ノ代理而シテ彼ノぴすとるニ至ツテハ、幸ニ吾常勝軍ニ従フニ依ツテ徒ニ行李ノ重量ヲ増スノミ、更ニ一分ノ用ヲモナサズ。依リテ行厨器ヲ功一級トナサバ、ぴすとるハ応ニ位記返上タルベキカ(戦時画報二十三号)
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 小杉さんの同僚には、木村半心、芦原録、水島南平、岡部天籟、かういふ人々があつて、皆筆硯忙しく今日の字でいふ「報道班員」の仕事を競ひ合つたものだつた。――やがて、十年後の「小杉未醒」と、昔の同僚とでは、(小杉さんがこしらへたものではない)遠い開きが付くことになつた。
 ぼくはしかし「完成した」とはいつたけれども、美術を完成したとはいはない。小杉さんは先づ、「未醒」を完成したのであつた。そしてぼくに暴言さすれば、これが余人だつたら、小杉さんは颯爽絢爛たる「未醒」の幕の中で、相当安らかに眠つてしまふこと無きにしもあらず、小杉さんに美術と人生に対する求道が乏しかつたならば、到底人はよく「小杉未醒」から「小杉放庵」へと再蝉脱することは出来ない。普通人生ではこれは考へられない。「未醒」既でに画壇の大名である。しかし美術から云へば、到底「未醒」までの見識、発見、業績、態度では尽さなかつたところを、「放庵」以後の小杉さんには、――こゝに注意すべきは、その時小杉さんの手に持つた彩料は、洋彩でなく[#「洋彩でなく」に傍点]、和彩[#「和彩」に傍点]だつたといふこと――ぼくは小杉さんの描く油絵も、少くも、春陽会以後のものは「洋画」とは考へてゐない。
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