ないといふところで、五十歳を迎へる機に、小杉さんは放庵となり未醒ではなくなつた、として良いのである。春陽会展も第六回までは小杉さんは「未醒」号によつて絵を出してゐる。これが第七回展(昭和四年春)になるとその出品目録の第一四六番に、
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山童嬉遊 小杉放庵
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といふ一行が出て来る。そしてこれが堅いことをいへば後に文献としてモノをいふ公式の、最初の記念文字となるものだからである。正しく勘定すれば昭和四年は小杉さんは年四十九に当る。(後記=これはあとから小杉さんに「あの書きものではじめて自分にもよくわかつた」、と云はれた。)
小杉さんが大正十四年に帝大の講堂の壁画を描いたことは前にいつたけれども、後にその作品を世界美術全集に入れて、解説をかく時、この解説はぼくが書くことゝなつたについて、さて、作者の名を、未醒としようか、放庵としようか?には、迷つたものだつた。ぼくは「……作者は従来未醒を号としたが、頃年来は未醒号を用ゆる場合よりも放庵を号する場合が多い」と、あとがきをつけて、作者名はわざと「小杉放庵」にしておいたことがある。(昭和五年版、全集第三十五巻、第六十六図)ひとから放庵の名で書かれて、これが印字となつた公けのやうなものゝ初めは、これであらう。
どうして小杉さんが未醒号を廃して放庵号に移つたかといふたしかな筋のことはきゝ洩らしてゐるけれども、ある時、心おきない客同志の酒席で、小杉さんの古くからの知り合ひの人が小杉さんに訊いたことがあつた。「どうしてあなたは未醒をやめたのですか。この頃では全然未醒は使ひませんか。」小杉さんは「えゝ」と答へた。しかし「どうして」といふ問ひ方には何も答へずにゐるうちに、問ふ人は重ねて「未醒といふ号はいゝと思ひますがなァ(笑つて)、この未醒といふ字にイミがあるのが気に入らなくなつたかなァ」。小杉さんは酒盃を喞んで「いやァ」ハハハハと笑つた。問ふ人もニコニコしながら、こんどはぼくを顧みて「未醒でなく既醒、すでに醒むですかなァ。いや、未醒がいゝなァ。Kさん、どうです。醒めない方がいゝでせう……」。
小杉さんも始終一緒になつて笑つてゐたけれども――今考へて見ると、前後に此の時だけしか、未醒を廃したことについては小杉さんとの間で、これが特別の話題に上つたことはない。
いつか小杉さんはすらすらと未醒
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