杉さん」といふ人の環境裡には、手堅く成り立つてゐるといふ、驚くべく羨むべき昭和二十一年の身辺の現実であらう。
 小杉さんはずつと友達運のいゝ人だつたが、それが又(結果から見ると)友達運に薄かつたともいへる不思議な縁をたどつたことは、押川春浪、国木田独歩、中沢臨川、今村紫紅、森田恒友、倉田白羊、(追記、山本鼎)、好友ならざるなし、しかしその一人々々と、ぼつぼつと、別れて来たのだつた。それかあらぬか、森田さんの病篤い時だつた。倉田さんの時にもさうだつたが、その亡くなられる前から、小杉さんは、森田は死ぬなァ、または、倉田は死ぬなァ、死ぬなァと、その人の話の出る度に、その時病ひ篤かつた森田さん、倉田さん達の「死ぬ」ことばかり口に出していつて、僕など、返答に困ること度々だつた。そしてこれは聡慧流水の如しと雖も、小杉さん自ら気がつかれないことには、小杉さんはその都度、実はまだあれに死なれてはたまらないなァ、やりきれないなァ、と心に切々と、深々と、思ひ溢れてゐる。されば逆に言葉に出して、最悪に対してしきりと伏線を張りながら、寂しさを撓めてゐたのである。撓めて堪へきれなかつた小杉さんのジェステュアだつたといへると思ふ。――これらの盟友と次ぎ次ぎに別れて来た苦盃も、小杉さんの人間を慈味に深い、思ひやりの細かな風格としたゞらう。
 小杉さんは日光の人であるが、関東は地つゞきのかたぎもあらうか、殊に教養経験の数々、筋々が、皆まつたうの場所を踏んできてゐるところから、全然、僻遠の地の人の風はない。大江戸残党の苦労人といつたやうな滋味のある、イキなオヤヂである。(若しそれイキゴトに至つては、御膝元の鏑木さんよりも、ワカル、悪老、日光の放庵だ。)小杉少年が五百城先生の膝下から東京に出たのは、折柄紫派の波が中心地に盛んな頃だつた。却つて五百城先生はその渦中に投ずることを欲しなかつたといふ。
 さうして小杉さんは東京へ出ると、紫派の一敵国であつた不同舎に就いて――いつのことだつたか、後年何かの講演?で和田さん(英作氏)と一緒の席だつた時に、和田さんの講演に次いで小杉さんが一席、こゝにおいでの和田さん達、紫派の諸将に対しては、自分は、クソ!と、目の敵にして対抗したものだつたと、話をされたことがあるさうである。和田さんもまた笑み崩れて聞いてゐて「面白かつたよ」と小杉さんはこの話をしながら、たのしさうで
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