くなんぞの十八歳は「芸術少年」だつた。
 小杉さんは第四回の文展(明治四十三年、三十歳)へ「杣」を出品して三等賞となつてゐたが、ヘンな言葉ながらこれが登龍門の小杉さんとしての第一関となつたやうである。「登龍門」はヘンな言葉ながら当時は文展も今日のやうなものでないから、字のまゝに登龍に値したらう。ぼくの誤聞でないとすれば、小杉さんはこの「杣」の前には、文展へ送つて「落選」の経験をされたらしい。「あの時分の落選は手痛いものだつたよ」と聞いたことがある。「それでハツプンしたんですなあ。あとは踏張りましてね」と、笑ひながら、目を細くして、話したことがあつた。小杉さんはまたかうもいつたことがあつた。あの時分には「対抗意識で仕事しましたね。対抗意識ばかり見たいなもんだ。こんどは一つアイツを乗り越してやらう。といふんでね」。
 小杉さんはかういふ、自分事の話などされる時には、テレて……といふか、心持視線を相手から避けながら、殊更にあたま(ハゲアタマ)に手をやつたりして、ごちよごちよと端折つて、そのくせ要点はズバズバと、話をする癖がある。得て自分事の功名であるとか分の善い内輪話などを、「吹聴」といふ字でいふのがいゝが、吹聴することを甚だ好まない。かといつて、偽悪的かと見るに、さうではない。いふべきこと、例へば主張すべきことは、ちやんと通してゐながらも、心やり細いのである。――こゝに小杉さんの風格があるだらう。随分の大作が行き、また小点の行く「小杉さん」がそこにあるだらう。
 小杉さんはぬけぬけした、或はズケズケした触りの微塵も無い人であるが、ふうはりした中にしまりのある、思ひやりの届く出所進退をよく弁へた、万事にキメの細かい人である。修養と意力によつてこれに適度の「断」があるであらう。
 小杉さんの風貌は神経つぽいとか「弱気」とか「蒲柳の質」といふのとは異る。肩幅など頑丈な手足も骨格のしつかりした「豪放型」であるから、しつかりした豪放型からは、いはゆる「心臓」も太い、あらけづりのところが出易い?――に反して、小杉さんからはさういふものは全然期待することが出来ない。この辺のがい切な観察はつとに故人の芥川龍之介が小杉さんについての短章の人物論に、はつきりと述べたことがあつた。小杉さんは粗野とは正反対の Education Sentimentale「訓練」を身につけてゐる人である。半ばは
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