つて、――ぼくは少年のころによくそのくぼみへはひつては、そこだけに珍らしく生えてゐる雑草を楽しんだものでしたが――これに高い一竿の旗ざをが立ち、朝夕、白地に「牛鳥いろは」と朱で書いた小旗をこれへ上げ下げしました。これを家ではフラフといひました。主のしんせつフラフの、どうとかして、その日その日の風次第、といふ歌の実感があるわけです。フラフはフラッグの訛なりや否。
 明治十六年版の「袖珍東京みやげ」に
「両国回向院角力。角力は両国晴天十日晴れて逢ふとはうらやまし」
「柳橋。柳橋から小舟ぢやおそいそれより手ばやに人力車」
「百本杭。百本杭まで手に手をつくしこれも恋ゆゑ苦労する」
「両国の花火。日よふを待つてあげたる両国花火猫は鯰がそう仕舞」
 吉川町の両国広小路寄り表通りは軒並みの商家になつてゐますが、その裏通り、ぼくの家から後ろの一列一帯は、芸妓じんみちになるので、その鯰が総仕舞する猫の住家です。当時の柳橋芸妓についてはこれもいつぞや述べたことがあるから略します。吉川町の裏通りは略します。表通りは――足袋屋の次ぎが吉川町二番地に移つて、大平になります。大平、細かくいへば松木平吉で、末期ものゝ浮世絵版画の名代の版元です。しかし僕なんかはこれを大ざつぱに絵草紙屋で通してゐましたが、僕の家の裏手からは小路が細く曲りくねつてこの大平のわきへ抜けられるやうになつてゐて夏などはこのドブ板を敷いた高い家と家との間の小路がいとゞ涼しく、大平は真黒な巌丈な土蔵造りですし、ぼくの家は煉瓦作りです。ぼくは広小路へ出るのによくこのしやあひ[#「しやあひ」に傍点]を抜けては、大平の横手の窓口から、暗い家の中で、木版の刷り合せをやつてゐるのを覗いたものです。大平の店先きには絶えず眼先きを変へて、今思へば小林清親であるとか大蘇芳年などの錦絵新版ものが奇麗にかゝつてゐました。中でも未だにありありおぼえてゐるのは、たて版二枚つゞきの、一つ家の鬼婆が片肌脱いで出刃を磨ぎながら、赤のゆもじ一つで上からさかさにつるされてゐる身持ち女を見据ゑてゐる凄い図でした。女は髪を黒々と長く垂らして、真白のからだでした。
 大平の隣りが勧工場。これは後に寄席になりましたが、それから、天ぷら屋、金もの屋、松の寿司、砂糖屋、と並んで、吉川町八番地、この界隈が十七世の吉村金兵衛さんといふ家です。これが町内の共睦会の幹事をしてゐました。その他「月番」であるとか昔の「家主」といつたやうの感じ。旧芝居の二番目ものでさういつた役々を見ると、今でもすぐ脳裡に浮ぶのはこの吉村さんの面影です。渡世は印版屋だつたと思ふ。鰹は半分貰つて行く、その「悪」は無かつたけれども。
 この印版屋をぼくはインバイヤといつて、家のものにひどく怒られたことがあります。
 吉村さんの隣りが絵草紙屋の加賀吉。それから玉屋眼鏡店。蝋燭屋。玉ころがし。金箔屋の岩田。べつこう屋の伊勢七。両国餅の佐久間。松本。ランプ屋。葉茶屋の池田。天ぷら屋の柳橋亭。せんべ屋の紀文。これで吉川町が両国寄りの角にぶつかります。

 勿論以上は片々たる記事文に過ぎませんが、危ない記憶や当推量は少しも交へず、大正十三年に元同じ両国辺りに住んだ上原長柏と西野治平、高見沢遠治及びぼく。これだけ寄つて、吉川町、元柳町、横山町、馬喰町……此の界隈一帯にわたる、相当精密な地図を作り、これが僕の家に保管されてゐるのです。
 ――それに依つて、ほんの一部分の、吉川町区分だけをこゝに記した文献であります。

 ぼくは明治二十六年八月二十一日に生れました。中川一政、山口蓬春諸君と同年です。政治家や実業方面ではどういふところか知りませんが、俳優でいへば林長三郎、村田嘉久子等と同年の巳歳で、花柳章太郎が一つ歳下、中村時蔵が二つ歳下です。ぼく達の巳歳からもう一廻り上の巳歳が小杉さんで(放庵子)、小杉さんの更にもう一廻り上の巳歳がアンリ・マチスの歳になります。
 話がもどります。フューザン会といひ生活社といつても、今では画壇の昔語りで、若い人々には誰がどうしたことかわからないでせう。それ等の内訳は此の書きものゝ範囲外となるからこゝには記しませんが、フューザン会はその頃銀座にあつた読売新聞社の楼上で開かれました。それからして場所といひ名といひ、今の人達にはヘンに思はれることでせう。生活社――この同人は、前にものべたやうに、故岡本帰一、高村光太郎、岸田劉生、小生の四人。――は神田三崎町のヴィナス倶楽部といふところで開かれたと云つた。この家なんか正に文字通り方丈記の「世の中にある人と住家とまたかくの如し。玉しきの都の中に棟を並べ甍を争へる云々……これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり」。今行つて見ても全然何処にその家が在つたかわかりません。その帰朝展覧会が同じ会場で開かれたものです
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