三歳の時(明治三十九年)突然病の悪化で倒れたのです。
ぼくはこのオヤヂさんに、殆んど一度も抱かれたことも無ければ、一緒に何処かへ連れて行かれたおぼえもなし、ろくにものを買つて貰つた記憶も有りません。たゞ何となく常にフロック・コートを着た重々しいオヤヂでしたが、別段それ以上の存在とも思はれず、オヤヂは当時東京市内各区に牛肉店いろはの支店を設置するに当つて、その主立つた店々に、管理人の名実を以つて、婦人を置きました。これを「御新《ごしん》さん」といつた。その一人がぼくの生母です。ぼくはこの木村家(いろは)の第八番目に出生した男子といふわけで荘八の名をつけられ、父は荘平といひました。が、ぼくの生れた店はまた丁度第八番目のいろはで、両国吉川町の角にあつたものです。当時東京市内各区のいろは牛肉店は二十軒以上盛業してゐたと思ひます。いろは四十八軒まで作らうとした気だつたかも知れません。上野のがん鍋も買はうとしてこれは実現しなかつたことなどおぼえてゐます。オヤジはそのいろはの主立つたところ、例へば芝三田の第十九いろはであるとか、深川の第七であるとか、万世橋の第六であるとか、ぼくの第八……それぞれを管理させてある「御新さん」達に、子供が生れると、男女共、これに番号の名をつけたものです。おろく、おくめ、おとめ、士女子、とじ子、おとむ、おとな、荘五、荘六、荘七、荘八、荘九、荘十、荘十一、荘十二、荘十三、といふわけだ。
ぼくのきやうだい[#「きやうだい」に傍点]は、そんなわけで、皆合はせると、三十人以上ありました。
ぼくはしかし平素、その三十人大家族と常に顔を合はせたといふわけではなく、子供達はそれぞれの母と一緒に、それぞれの店に居るわけで、従つてぼくはぼくの一つ腹の兄妹達三人と共に、両国の家に育つたものです。「父」こそ日頃親しまないが、それにしても無いわけでなし、母や祖母とは朝夕親しく、身近く健在で、それに金は有り、商売は陽気なり、雇人は大勢居ます。春は正月から花にかけていつも浮きますし、夏は歌の文句ではないが大川の花火だ。秋は新松《しんまつ》だ、冬は酉のまちだ、歳の市だ……で、いつも家中ごつた返してゐます。それで僕の少年時代の記憶といへば、店は始終忙しいから、大仲好しの祖母と、中の間といふ奥の仏壇の有る居間にすつこんで、この祖母がチビのぼくをつかまへて胴を膝の横に落した爪弾きで「本町二丁目の糸屋の娘」なんといふ端歌を教へたものです。母も祖母も眉毛の無い、お歯ぐろを付けた細面ての、「イキ」といふ身なり形ちの女達でした。――そんな空気の中で育ちました。
だからこれはエドツコが出来上るわけでした。あるひはまた、これも家が始終忙しい為めにコドモは邪魔であるから、毎晩のやうに、義太夫席の新柳亭であるとかまたは色ものの立花家へ付人をつけて寄席にやられてゐました。それが段々とこつちが長ずると、チビのころからの下地ですから、今度は自分で芝居見物に出かけます。中学校の頃には、これも三年迄はマジメにやりましたが四年の色気附くころからはぐれて、学校へはほとんど行かずに、東京各座の立見々々に憂身をやつしたものです。ぼくが年のわりにわれながら芸壇の消息を随分古いことまで知つてゐるのは、これ等のガクモンから来ます。――いふまでもなく、それで童貞でゐるわけはありません。十七だつた年の暮からぼくは男でしたからその頃、中学の同窓がニキビを吹出してあらぬ話をし合ふのがくすぐつたいものでした。
中学校では清水良雄君がぼくの一級上、それが市川猿之助のゐた組で、小学校ではまた僕は田中咄哉州と同級でした。その他、今の望月多左衛門が同窓の先輩で、樫田喜惣次が同級です。亡くなつた林家正蔵なんぞも同窓だつたやうです。中学は駿河台の京華中学、小学校は浅草橋の千代田小学校です。
十七歳から二十一迄は、殊に十八の歳からは家が変つて浅草広小路(第十支店いろは。昔曙女史のゐた家)に移つたので、折柄、中学は卒業するし(明治四十三年)、「年頃」ではあり、家兄の見やう見真似もあつて文学美術に心傾けながら、又その頃の文壇影響も小形なりに受けて、「享楽派」が一匹こゝに出来上りました。よく病気にならずにすんだと、その頃を回想すると、危険な気がします。
中学校は家から離れた土地まで通つたのでしたが、これは下町には学校が少なかつたからで、学校が変つた為めに自然幼な友達とも別れ、それまでの小学校は家から指呼の間の公立ながら、云はば「町内学校」に通つたわけです。当時は私塾、寺子屋の組織も珍らしからず、私立の大堀学校などは両国近くに、聞こえたものでした。とんと一葉の「たけくらべ」の具合は、まだ我々年輩の少年世界に変らない状態でした。
小学校を田中咄哉州と同窓だつたのは、年経て、つゝ井づゝの同窓が末長く同業でゐ
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