がゐるんだらう!
お秋 誰も居やあしないよ。
弟 嘘言つてら。(見物席を指して)ゐるんだらう。その辺にまだ誰かゐるんだらう。
お秋 (見物席を見て微笑)誰もゐやしないよ。
弟 さうかい。俺にはまだ居る様な気がするんだけど。――俺にはしよつちうそんな気がするんだよ。誰も彼もが、姉さんを掴まへさうな気がするんだ。姉さんにさわりさうな気がするんだ。姉さんを、さらつて行きさうな気がするんだ。――(見物席を指して)その辺に沢山、そんな男がゐる様な気がするんだ。
お秋 (再び見物席を見て微笑)何を言つてゐるんだよ。
弟 姉さんは、いろんな匂ひがするよ。恐ろしく沢山な匂ひがするよ。――いろんな匂ひがするよ。
お秋 馬鹿だねえ。そんな事言つてゐないで、早く寝たらいゝ。
弟 しかし、来年になつたら――畜生どもに――。さうなつたら姉さんは、あの人と一緒になる。
お秋 (二階をチラリと見て)なにがさ?
弟 白ばつくれたつて俺は知つてる。阪井さんはメツタにやつて来ない。しかし、姉さんは待つてゐるんだ。知つてゐるよ。――さうなつたら俺は、阪井さんを兄さんと言ふよ。兄さんと言ふよ。
お秋 (目の見えぬ弟を淋しさうにヂツと見て)阪井さんなら二階に来てるよ。
弟 なんだつて? 阪井さんが! どこにゐるの?
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この頃、便所に立つたらしい阪井が右手階段のあたりの便所口から、階段へ行かうとして出る。何と思つたかそこに立つたまゝお秋の方をヂツと見て立つてゐる。この幕の終るまでそこに立つてヂツと見てゐる。
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お秋 お前の部屋にゐるかも知れないよ。
弟 しかし今頃どうして来たんだ。組合の方がいそがしいんぢや無いのか。俺、今夜あの前を通つたぜ、大変な騒ぎだ。ワーツワーツつて、なんか喧嘩でもやつてゐるらしかつた。俺あすこに立ちどまつて、やれやれ、しつかりやつて、金を持つて、いろんな匂ひのする奴等をたゝきつぶしてやれと思つた。俺も目さへ開いてゐたら。――どうしたんだよ、阪井さん?
お秋 どうしたんだか、私や知らない。
弟 変ぢや無いか。――どうも変だな。――姉さん、浜の方は凄いぜ。見えはしないけど、今に浜はひつくり返るよ。
お秋 ――そんな事はもういゝから早く二階へおいで。もうお休み。
弟 寝るよ。あゝ寝るよ。姉さんは?
お秋 私や戸締りをしなきやならないから――。阪井さんがお前の所に寝るなら、少し蒲団を分けておやり。
弟 いゝとも、だけど変だなあ。あゝ寝るよ。姉さんも早くおやすみ。(階段の方へゴトゴト行く)姉さん、姉さんはあの人に惚れてゐるよ。そして、さうで無いふりをしてゐるんだ。俺知つてゐるんだ。(二階へ消える)
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お秋煙草を吸ふ。――吸ひ止めてヂツとなり、テーブルに顔を伏せ、急にガツクリして声を出さずに泣く。永い間。隅に立つた阪井がお秋を見詰めてゐる。時計が十二時を打つ。入口の扉が開いて、神経質らしい洋服の町田が少しキヨトキヨトしながら入つて来る。
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お秋 おや、あんた町田さんぢやなくつて!
町田 あ、お秋さん、今晩は――(四辺を見廻す)あの、つい来よう来ようと思つてゐながら――。
お秋 ――。
町田 あの時のお礼もロクロク言はずにゐたし、来なくちやいけないと思つちやゐたんだが、ね――。
お秋 それなら、もういゝのよ。お礼なんて、そんな、私は自分のしたいことをしただけなんだから、それに、あんた達、こんな所へ来ない方がいゝのよ。
町田 いや、さう言はれると――。どうも、いろいろ忙しいし、それで――。
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短い間。
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お秋 ――ぢや本当だつたのね?
町田 なにが?
お秋 いゝえ、――もうね、(二階を目で差して)日暮頃から、杉山が来てゐるのよ。
町田 えゝ、それぢや、それぢや――。
お秋 私は多分、又小使銭取りの嘘だらうと思つてゐたわ。どうしたの全体?
町田 本当なんだ。昨日夜だ、僕が働きに行つた留守に居なくなつたんだ。僕は、また、戸崎《とざき》の方にゐる親戚へでも行つたかと思つて。――そんな事が前に二三度あつたのでね。――そいで今日昼頃まで待つてゐたんだけど帰つて来ないんで、――きまりが悪かつたけど戸崎へ出かけて行つたところが、来てゐないと言ふんだらう。(間)――来てゐるんだらう?
お秋 それが、ゐないのよ。
町田 えゝ、ゐない? 来てゐない? そりや、大変だ。もしかすると、こいつあ、もしかすると――。
お秋 一体全体どうしたのよ?
町田 どうしたと言つて、お秋さん、僕はどうしていゝか解らないんだ。
お秋 もつとあんた、落着かなきや駄目よ。男のくせに何をワクワクするんです。――一体、初ちやん、どうしたつて言ふの?
町田 それが、初子は可哀さ
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