仏頂面の、それでゐて無闇にブカブカ太つた女給に便所を貸してくれと言ふと、彼女はニコリともしないで「便所は内には有りません。共同のが外にありますから、あすこでして下さい。」
 指す方を見ると、ノレンをくゞつた店の横、つまり露路の中のコンクリー壁の外に水道の共同栓みたいな物が立つていて、その下がヂヨウゴ形のコンクリーの叩きになつてゐて、真中に小さな穴が開けてある。囲ひの板一枚有るわけでは無い。つまり、此の町の真中に、完全な野天の共同便所が有つた訳である。しかたが無いから、ヂヤーヂヤーやつてゐたら、薄暗い露路の奥からスタスタ出て来た男が、人の足元を見てから膝から腰、腹から顔と言つた順序で、つまり人の身体を逆さまに舐め上げる式の視線の使ひ方、つまりあれで以て僕を見ながら近づいて来て、
「いよう!」と言つてニヤリと笑つたには弱かつた。
 先方では知らないだらうが、僕は知つてゐる。これはぎう[#「ぎう」に傍点]太郎だ。金貸もやつてゐる。その時も金貸の方の用の帰りでもあるだらう。小さい黒カバンをわきにはさんで、立停りもしないで露路を出て行つてしまつた。
 眼のやり場に困つて、前のコンクリーの壁を見ると、これは又何と言ふ丹念さで描き上げたものか、つまり大概の共同便所の壁に描いてある例の絵が、深刻な出来栄へである。絵の直ぐ上、つまり僕の鼻の先は中華料理店のコツク場の窓になつてゐて、そこでコツクがシユウマイをまるめてゐる。鼻声で流行歌を唄つてゐるが、なんとも汚ならしい垢だらけの青年だ。僕の鼻にはシユーマイの匂ひがして来る。勿論足の下の共同便所からは小便の匂ひも立ち昇つて来る。ヘドが出さうになつて来た。
 小便は終つたけれども、どうにも店に戻る気にはなれない。注文しつぱなしで、金も払はないで行つてしまふのは、青んぶくれの女給に気の毒だし、それに下手をしてふんづかまりでもしたら叩きのめされるかもわからないとは思つたが、だからと言つてあのシユーマイを食つたら俺は死ぬかも知れないぞと、臆病者にありがちの大袈裟な恐怖にとらへられてしまへば、もう絶体絶命である。まゝよ、女給さんには、又今度あやまらうと覚悟をきめるや、殆んど一目散に露路を走り出して逃げ出したが、暫く行つてチラツと振返つたら、誰も追ひかけて来る気配も無いのは、笑止であつた。
 その後もあの近くを通る毎に、あの女給に十銭銀貨を渡しに寄ら
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