美緒 なんの事言つてるのよ?
五郎 う? うん、……あのなあ美緒、今日は赤井達が来るし、利ちやんも来るかも知れんが、喋つちや駄目だよ。いゝな、無言の行だぜ。
美緒 いゝわ、約束してよ。……でも此処でみんなお話してね、私寂しいから。……私、黙つて聞いてゐるだけだから。此処で話してね、……よくつて?
五郎 よしよし。
美緒 あゝ、うれしい! あなたつたら、誰でも直ぐに浜に連れて行つてしまふんですもの。……あすこで一体、どんな良い話をしてゐるの?……妬けてよ、私……。
女の声 (玄関から)こんにちわあ……。
美緒 あゝ、京子さんよ。
五郎 そら、黙つて! (玄関の方へ行く)や、いらつしやい。
京子の声 これから泳ぎに行くんですの。
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 言つてゐる間に、京子の兄の比企正文が黙つて微笑しながら病室に入つて来る。つゞいて京子も玄関の間にあがつて、そこに坐る。比企は口数が少いが、しかしいつも平均して機嫌の良い調和の取れた真面目一方の男である。頭の中が常に論理的に整理された人間のみに在る落着きと、同時にそんな人間にのみ特有の、病的でない偏執性を現はしてゐる。開業医らしい所は無く、研究室にこもつてゐる科学者と言つた風だ。これから海に行くつもりか、浴衣姿に皮のバンドをしめ、聴心器だけを懐中にねぢ込んでゐる。
 京子は身体の立派な美しい女で、潮風に荒れないやうに乱暴に厚く塗つた白粉の、頤や首の所がまだらになつたのが、変に魅惑的である。此の女にはひどく子供の様に――と言ふよりも白痴の様に無邪気になる時がある。そんな瞬間には、眼がスガメになつてしまつて、彼女自身も自分がいま何処にゐるのかわからなくなりでもするやうだ。これも浴衣姿。ニツコリして美緒に目礼する。美緒も目礼。
 二人の来た事を知つて小母さんが、イソイソしながら茶を運んで来る。
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比企 (美緒に)やあ、今日は、どうです?
美緒 毎日、ホントにすみません。
比企 なに、浜へ行くついでにチヨツト診てあげようと思つて……。(聴心器を出す)久我君、フイブルは?
五郎 (比企と京子の中間、つまり玄関の間と病室の間の敷居の上に坐つて)ありません、昨日の午後から。
比企 一昨日の僕の処方は?
五郎 やつてます。おかげで食慾が少し出た。
比企 ナツハシユヴアイス?
五郎 かなり有ります。
比企 今朝起きぬけのプルス?
五郎 六十六。稍々微弱。
比企 フム……で、主治医は、やつぱり例の――?
五郎 ええ、今日も先程、一筒打つた。
比企 うむ……(あとは無言で、美緒の胸に聴心器を当てて、永い間、非常に慎重に診察してゐる。小母さんは美緒の着物を直してやつたりして診察の手助けをする)
京子 久我さんも泳ぎにいらつしやらない?
五郎 (診察の方に気を取られながら)え? いや僕あ。第一、もう冷いでせう。
京子 でも私、真夏よりは今の方が泳ぐの好きよ。ヒヤリツとして良い気持。……こないだ、三越であつた梅川隆三郎の個展御覧になつて?
五郎 いや、なにしろ暇が無いもんですから。
京子 見たわ私。相変らずケンランたるもんね。でも、なんですか、同じ事の繰返しね? よく飽きないと思ふわ。第一、あんな豊富な色を、あんなに繰返されると、美しいと思つて見てゐる間はいゝけど、ヒヨツと鼻についてトタンにヘドが出さうになるわ。さうぢやなくつて?
五郎 さあ、でも、あれはあれでいゝんでせうね。
京子 ……久我さん、音楽はお好き?
五郎 好きです。美緒も好きなんで、レコードでもと思つて心がけてゐるんだけど、そこまでは未だ未だ手が廻らなくつて……。
京子 レコードやラジオぢや駄目だわ。生で聞かなくつちや。此の秋、私達の仲間でオペラを上演するから聞きにいらつしやらない。切符送つて差上げるわ。
五郎 ありがたう。でも僕にやオペラつてやつは解らないんですよ。声を張り上げて歌ひながら啜り泣くなんて言ふのは苦手だ。あれは――。
比企 (はたで話されてゐる事にはお関ひなく、診察を続けながら)メンスは規則的に有るのかね、久我さん?
五郎 え?
比企 ……あんまり無いのぢやないのかね?
京子 まあ! 兄さんたら! (真赤になつてゐる。美緒も赤くなつて、まぶしさうに片手で額をかくす)
比企 なんだ? (キヨトンとしてゐる)
京子 失礼だわ! 婦人の面前で、ねえ奥さん!
比企 いやあ、不規則なクランケで時々原因無しにブルーツングを見る事があるんだ。そいで――。
京子 もう、いやつ! 私、ぢや、先きに泳ぎに行くわ。失礼ねホントに兄さんは! (言ひざまパツと立上つて玄関からドンドン出て行つてしまふ。動物じみた敏捷さである。遠ざかりながら、カルメンの独唱を歌つて行く)
比企 ……なんだい、スツトンキヨウな奴だなあ。……いやねえ
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