るかなんて言つてゐたな? フン! そんなもの有るもんかい! 慾張るな。人間死んぢまへば、それつきりだ。それでいゝんだ。全部真暗になるんだ。そこには誰も居やしない。真暗な淵だ。誰かを愛さうと思つても、そんな者は居ない。ベタ一面に暗いだけだ。たゞ一面に霊魂……かな? とにかく霧の様な、なんかボヤーツとした雰囲気が立ちこめてゐるだけで、そん中から誰か好きな人間を捜さうと思つても見付かりやしないよ。入りて吾が寝む、此の戸開かせなんて事は無くなる。人間、死んだらおしまひだ。生きてゐる事が一切だ。生きてゐる事を大事にしなきやいかん。生きてゐる事がアルフアでオメガだ。神なんか居ないよ! 居るもんか! 神様なんてものはな、生きてゐる此の世を粗末にした人間の考へる事だ。この現世を無駄に半チクに生きてもいゝ口実にしようと思つて誰かが考へ出したもんだ。現在生きて生きて生き抜いた者には神なんか要らない。第一、神様なんて居やしないよ。その証拠には……その証拠には、神様が居て、そいで神様が人間を創つたもんなら、そんなら、その人間を倒す結核菌は誰が創つたんだ? 結核菌の方には結核菌だけの神様が居るわけか? 馬鹿にするな! (はじめはそれ程でも無かつたが、喋つてゐる中に本気になつて手をブルブル顫はせてゐる)
美緒 ……そんな……私に……怒つたつて……。
五郎 (我れに返つて)……要するにな、俺の言ひたいのは、万葉人達の生活がこんなにすばらしかつたのは、生きる事を積極的に直接的に愛してゐたからだよ。自分の肉体が、うれしくつてうれしくつて仕方が無かつたのだ。逆に言ふと、来世だとか死んだ後の神様だとか、そんなものを信じてゐなかつたからこそ、奴さん達は今現に生きてゐる此の世を大事に大事に、それこそ自分達に与へられた唯一無二の絶対なものとして生き抜いた。死んだらそれつきりだと思ふからこそ此の世は楽しく、悲しく、せつない位のもつたい無い場所なんだよ。死ねば又来世が有つたり、変てこな顔をした神様がゐてくれたりすると思つたら、此の世はなんの事あ無い手習い草紙みたいなもんだ。いゝくら加減に書きつぶして置けばいゝと言ふ気にもなるんだ。神だとか来世だとかを考へ出したのは、小さく弱くなつた近代の人間の謂はゞ病気だよ。そんな事を考へて置かないと此の世に生きる事の強烈さに耐え切れなくなつちやつたんだ。病気だ。俺達はみんな病気になつてゐる。誰も彼もみんな病人だ。…わかるかい? ……そして、この病気を治してくれるのは、昔の、俺達の先祖が生きてゐた通りに生きて見る以外に無いよ。自分の肉体でもつて動物のやうに生きる以外に無い。動物と言つて悪けりや、一人々々が神になるんだ。……今、戦争に行つてゐる兵隊達が、それだよ。動物でもあれば神々でもある。日本の神々が戦つてゐるんだ。戦争をすると言ふ事は、最も強烈に生きるといふ事だよ。さうぢやないか。理窟もヘチマも、宗教もイデオロギーも、すべてを絶した所で、火の様になつて生きてゐる! それが戦争だ。いゝか? ……俺達は万葉人達の子孫だ。入りて吾が寝む此の戸開かせだ。早く開けろ。それでいゝんだ。お前が、赤井と伊佐子さんを一緒に寝させたがつた。それでいゝんだ。それでイライラして熱を出した。それもいゝ。俺あうれしいよ、その調子なんだ。……俺達あ、美しい、楽しい、かけがへのない肉体を持つてゐるんだ。ゆづるな、石にかじり付いても、赤つ耻を掻いても、どんなに苦しくつても、かまふ事あ無い。真暗な、なんにも無い世界に自分の身体をゆづつてたまるか。[#「たまるか。」は底本では「たまるか?」]
美緒 読んで……また……
五郎 よしよし、……どうも講義の方が長くなつちまはあ。ハハ。疲れはしないか? ……ぢや読むよ(と書物をめくつて)チエツ、まだ臭い……(と指の蛇の匂ひをかいでゐる)
美緒 ……どうしたの?
五郎 なんでも無い。(朗読)大伴旅人。あな醜《みに》く、さかしらをすと酒のまぬ、人をよく見ば猿にかも似む。……これは前にも一度読んだね。あゝ見苦しい事ぢや、悧巧ぶつた事をする人と酒を飲まない人を、よくよく見たら猿にでも似てるらしい。猿にかも似む。全くだ、猿め! (朗読)同じく。妹《いも》と来《こ》し敏馬《みぬめ》の崎をかへるさに、ひとりし見れば涙ぐましも。妻と一緒に来た事のある敏馬の崎を帰り途に一人で通つて見ると、涙ぐましい……(朗読)同じく。この世にし、楽しくあらば、来ん生《よ》には、虫にも、鳥にも吾《あ》れはなりなむ。そら、これだこれだ! 此の世さへ楽しかつたら来世には、たとへどんな動物になつたつてそんな事あ構はん。これだよ! この世にし楽しくあらば来ん生には、虫にも鳥にも吾れはなりなむ!
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そこへ小母さんが台所の方から出て来る。
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