無いのか?……さうか。比企さんの処方はやつぱり一番効くやうだな。……比企さんと言へば、いや、どうも、俺あ醜態を演じちやつて……。頭を悪くしてるよ。……とうとう怒らしちやつた。あの立派な人に喰つてかゝるといふ法はないんだ。醜態だ。……いや、直ぐに詑《あやま》り状は出しといたがね。怒つちやゐないから、今後ももし必要があつたら、いくらでもさう言つてよこしてくれと言つて来た。……俺あ、耻かしくつてなあ。……まあいゝさ。俺と言ふ男は、何処へ行つても結局赤つ耻を掻くやうに出来てゐるんだなあ。……どうも仕方がないよ。ハハハ、……まだチツトも人間が出来てゐない。よくよく駄目だ。……三十面をさげて青過ぎらあ。……(美緒が頭を横に振つて、そんな事は無いと言ふ。と言ふよりも、そんな風に自分を否定してはいけないと言ふ意味を籠めて)なんだつて? いや、さうなんだ。こんな事ぢや、赤井にだつて済まねえ。……第一、こんな事で赤井の留守を、伊佐子さんや生れて来る赤んぼなんぞの事をチヤンと守つてやつて行けるもんか。久我五郎はオツチヨコチヨイの青二才だよ。……一言に言ふと、やつぱり安価なるセンチメンタリストなんだな。尾崎の奴あ、さすがに人を見る眼が肥えてゐやがる。ハハハ(言ひ方はわざと滑稽化してゐるが、自分では本当に自分をその様に反省してゐるのである)……どうだ、少し又、万葉を読んでやらうか? いらんか? あとで? さうか。ハハハハ。俺の万葉の講義は、まるつきり自己流だからな。ハハ、でもあれでいゝんだよ。馬鹿にしちやいかん! 自己流でもなんでも、万葉集は俺みたいにして読むのが一番本当なんだよ。……日本人でさへあれば、どんな無学な者が、どんな読み方をしても結局わかる。……ホントの古典といふものは、みんなさうだよ。
美緒 ……あなた……怒らない?
五郎 なんだい? 怒る? なにを?
美緒 ……怒らないと……約束して。
五郎 なんの事だか、わかりやしないぢやないか。……よし、ぢや約束する。怒りやしない。なんだよ?
美緒 ……(枕の下から一通の手紙を出して渡す。封が切つてある)
五郎 なんだ?……毛利から来た手紙ぢやないか。お前読んぢまつたな?……さうか。いや怒りやしないよ。……(手紙の内容を出して、黙読。読んで行く内に、顔が変に歪んで来る。悪い手紙らしい。読み終つて黙つてゐるが、腹の底からこみ上げて来るものを自ら押へてゐる)……ふん……さうか。……それでいゝぢやないか。(美緒の眼を見て)それが、どうしたい?
美緒 ……毛利さんも……あんまり……ひどいわ。
五郎 俺、怒つちや、ゐないだろ? いゝよ、それもよしと。如何にも毛利らしい書き方ぢやないか。まはりくどい。……結局、簡単に言へば、こちらの好意を無にするやうなら、好文堂の仕事もことわるからと言ふんぢやないか。……こないだの尾崎がやつて来てすゝめた事をことわつたんで、そんな事ならと言ふ訳だらう、いゝさ。仕事は、又他で捜すよ。……妙な顔をするのはよせ。
美緒 ……ひどいわ、毛利さん。……だつて……あの人、やつと……画らしい物が……描けるやうに……なつたの……あなたの……おかげよ。……どれだけ……あなたには……世話になつて……。
五郎 いゝよ、いゝよ。毛利が画が描けるやうになれば、結構ぢやないか。それがどうしたい?……これが世間なんだ。表裏反覆、いづくんぞ常あらんやだ。……面白いと思つて見てゐりやいゝ。なあに、子供の絵本はほかにもあるし、それも駄目なら似顔画描きにでも、紙芝居にでも、豆腐屋にでもなんにでもなる。……クヨクヨするな。初めつから世間の前で赤つ耻を掻く気でゐりや、なんでもやれらあ。どうせ、出来そくないの人間だ。恥も外聞も構はず、どうぞなんかやらして下さいと土下座して頼めば、なんか有るよ。……ハハ、お前知つてるか? 南北と言ふ人の「累《かさね》」と言ふ芝居の中にね、伊右衛門と言ふ悪党が出て来るんだよ。いゝかい? そいつがなあ、かう言ふんだ。「首が飛んでも死ぬものか!」
美緒 ……いえ、好文堂の事は……仕方が無いとしても……そんな事で……毛利さん達と……仲が悪くなつてゐては……あなたが……今後……画の仕事の上で……途がふさがる。……それが……私……心配……。
五郎 ハツハハハ、何を言ふか! 俺あ画を描いてゐるんだぜ。カンバスでタイコを叩いてゐるんぢや無えんだ。糞でも喰へ。……な、これが俺の画だ。これは、画だらう? さうだらう?……なら、それでいゝんだ。
美緒 ……でも。
五郎 もう言ふな。お前もその気になりやいゝんだよ。……(わざと芝居のセリフじみて言ふが毒々しい位の真実をこめて)首が飛んでも、死ぬものけえ!……ハハ。第一、俺の友達にや、赤井だとか須崎だとか藤戸などと言ふ素晴らしい奴等がチヤンと居てくれるよ。大したもん
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