う人間、そして、貴島のD商事は直ぐ近くにある――考え合せると、今の光景がどんな事を意味しているのかまるでわからないままで、それほど起り得ない事が起きたような氣もしなかつた。……國友は、去つて行く貴島の後姿を見ながら、宵闇の中にしばらく立つていた。どこにも昂奮しているような所は無かつた。私がこつちから見ている事には、まるで、氣附いていない。やがて、左手のハンカチを顏へ持つて行くのが見え、血を抑えながら、靜かな足取りで、繁華街の方向へコツコツと去つた。
9
まるで、なにかの映畫の一シーンだけを見さされたようであつた。印象は刻みつけるように強烈でありながら、――意味はわからない。二人の取りかわした言葉を、一つ一つの語調の微妙なところまで復習してみても、ハッキリしたことは、わからなかつた。ただ、ボンヤリと推察できることは、D商事の社長と國友の間に仕事の上でのモツレが有り、それについて國友がたびたびD商事へ訪ねて來ている、それがしかしD商事にとつては望ましくない事で……しかし、來させないために顏を斬るというのは? 「オヤジから言いつかつてしたのか?」と國友に問われて「うるさいから、僕が一存で」と答えた貴島の調子にウソがあるようには聞えなかつたが、いずれにしろ社長の「秘書」が社長を訪ねて來た者を斬る――そういう世界の、その黒田という社長なり、D商事という會社、國友の前身、それから斬られた後での落ちつき拂つた態度など――いつさいを含めて彼等の仕事がどんな種類のものであるかの大體の見當は附く。社會にはいつでも、ちようど無電の電波が人間の眼には見えないでも空中に無數に飛び交い張りめぐらされているように、普通の人にはまるで氣づかれないで裏の世界の網が張られている。そのような網のホンの一個所に偶然に私が觸れたのらしい。しかし貴島という男はどうしたのだろう? そのような世界の網の中に居る人間のようには思われない。
……私は、電柱のかげに立つたまま、かなり永いこと動けないでいた。傷害の現場を見たことでびつくりしたためでは無かつた。以前から、時によつて自分も登場者の一人として、もつと荒々しい光景を目撃したことは何度もある。それに、その當時の、言つてみれば尊重すべきものをすべて失いつくして、バラバラに分解したまま乾いてしまつたような私の心にとつては、流れたのが血であつても
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