いては、まあ久子の家に優先權が有る。それを相手のオヤジの方で、いつの間にか段々に自分の田の方へ利用する程度を多くして行つたようで、それに反抗して久子が鍬を持ち出して水路を作りなおしてしまつたらしい。今度がはじめての事では無く、かなり以前から同じような紛爭をつづけている樣子。このへんのような山がかりの田畑では、農家にとつて水の事が如何に重大なことであるかと言う事は、僕にもわかる。しかし二人の喧嘩の調子は、ただそれだけにしては、あまりに激しいし、双方の根にあるものがドギツすぎるように思つた。その事情は、後になつて、わかつた。
久子が山内杉雄と結婚したのは、戰爭中、東京に於てで、當時、久子は或る映畫俳優養成所に入所したばかりの研究生で(Mさんは、そこの講師の一人で、數多くの研究生の中で、久子の素質に注目し、特に目をかけてくれた由、後になり久子さんから聞きました)山内杉雄と戀愛に落ち、養成所をやめて結婚するや、いつたん二人は山梨縣に歸り、間も無く滿洲の開拓團に入團するため(山内杉雄は電氣の技術家で、直接農耕よりも農村電化の仕事に抱負を持つており、それの實現のため滿洲の開拓地を望んだ)一人の母親と、すこしばかりの田畑を親類の家に託して、滿洲に渡つた。その際、この附近の農家から同行を希望した青年たちが七八人あり、いきおい杉雄が團長格にされて、渡滿。それまではよかつたが、終戰になつて今までに歸つて來た者は、その中の二人と久子だけで、杉雄はもちろん、五六人の者が歸つて來ず、中の數人は死んだと言うし、他の者も消息無く、いまだに生死不明のため、その家族たちの間で、山内杉雄や久子を怨むようになつた。特に團長格で行つた(一同からたつてと頼まれて、しかた無く一同の世話を燒いただけの由)杉雄の妻が無事で歸つて來たこと、しかも、他の者は消息さえもわからないのに、杉雄はシベリヤの收容所で、とにかく無事に働らいていると言う便りまで有つた事などが、それら家族たちの怨みに油を注ぎ、村民の大部分もこれといつしよになつて、久子一家を憎むようになつた。それには、終戰以後の一般の風潮もある。つまり、復員服を着た青年を見ただけで反感を抱き、中には「おめえたちが戰爭したりしたから、おれたちはこんなヒドい目に會うんだ」と言い放つ者がいたりする――つまり、あれ。「うちの子供をそそのかして滿洲なんかに連れて行つてしまつ
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