も久保の表情には無かつた。この男は、もしかすると殺人者かもわからないのだ。そして、この男こそ、人を幾人殺しても平氣な人間かもしれない。そのような冷たい、不感の、強いものが此の男にはある。………見ているうちに次第に、ホントの恐怖がゾッと私に來た。
「逃げたようですね……」ポツンと彼が言つた。
「うむ……」
久保が圓陣の方へ向つて歩いている間か、又は、一團の者たちが逃げ走つたのと同時にか、杉田は貴島を助けながら逃げて行つたらしい。
とにかく、すべてが一瞬のうちに起り、その間なにを考えている暇も無く、氣がついた時には、私と久保だけが、闇の燒跡のまんなかにポカンと取り殘されていたのだ。今起つた事がホントに起つた事かどうか疑わしくなつて來るような時間であつた。キツネにばかされたと言うのは、こんな氣持を言うのだろう。
私と久保は、暗い中にいつまでも立ちつくしていた。……
26[#「26」は縦中横]
以上で、事件の見聞者としての私の記述は終る。
これだけでは、全體としても部分々々にも、よくわからない事があることを、私自身も知つている。しかしそれは、やむを得ない事であつた。なぜならば、そのようなアイマイさが生れたのは、幾分は私の記述の拙劣さのためであるが、同時に大部分が、事件が私の目に觸れた、その觸れかた自體がきわめて不完全な一面的なものであつた事から來ている。しかも私は終始、つとめて臆測や修飾を控えた。完全な脈絡の美を採るよりも、先ず何よりも眞實につかうと思つたためである。そして、そのためには、新聞雜報的な意味での低俗な「事實ありのまま」式な書き方さえも、あえて辭さなかつた。全體の不明瞭さをとがめる人があれば、その非難を甘んじて私は受けなければならぬ。
以下、貴島勉が私にあてて書き送つた手紙の數篇を書き寫すのも、この異樣な青年の、その後の姿を追いかけるという事の他に、この不明瞭さを、補つて見たいと思うためである。これを讀めば、私の記述の不完全な所や缺落した所や裏のことが或る程度までわかつてもらえると思う。
荻窪の防空壕の前で姿を消して以來、十日たつても一月たつても貴島は私の前には現われなかつた。同時に綿貫ルリもフッツリと姿を消した。久保と佐々は、その後も一二度私を訪ねて來たが、二人とも貴島の消息を知らず、心配のあまり、逆にそれを私にたずねるため
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