に調和させて受取っているのかも、自分にはわからない。何か非常に浅薄な、反省力や理解力の不足した人間があって、それが或る全く動物的な大きな動機から宗教に入れば、そんな風になるのかとも思う。自分がこの話から打たれたのは、そんなことでは無い。事の是非善悪でも無い。まちがっているとしても、その男ほどに「なり切って」いれば、そこには最早なんの問題も無いのではないかという言う点だ。既に「神」が彼にとって絶対であり、至上であり、全である。そのためには、自分などはいつ死んでもよいのであろう。そのために死ぬことは彼にとって、絶大なよろこびであろう。ましていわんや死よりも小さい此の世の刑罰や苦しみは彼にはなんの事をも意味しないであろう。彼を裁くことは出来る。そして現世にとって彼を裁くことは必要であろう。しかし結局に於て、彼の主観に於いて、そんなものはなんであろう。
 勿論、出征キヒの一つの手段又は口実ではないかと言う事は考えられる。その場合は軽蔑に値いするし、憎むべきエゴイズムである。いや、出征キヒで無くとも、これは憎むべき、軽蔑すべきエゴイズムかもしれない。神の名に依るエゴイズムかも知れない。
 しかし
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