。私にも多少の勇気はあって、いくらかは恐怖とたたかうことができますが、たいがい恐怖の方が勝ちます。
 だから用心ぶかい。性質が慎重だからではなく、臆病のためです。危険な橋はわたりたくない。渡らなければならぬ橋は叩いてわたる。それでも足をふるわせながらわたります。私のような臆病者がことをなすにあたって、本能的に心がけることは、いつでも最悪のばあいを予想するということです。その予想に立って自分の腹をきめるのです。そうでなければ何ひとつ決心できないのです。ことが多少でもうまく行くことを考えながら何かをしようとすると恐怖がさきに立って私の足はこわばりすくんで自由さを失い、できることにまで失敗するのです。
 私は海へ飛びこむときには、海底の岩にぶちあたって、頭を割ることを予想したうえでなければ飛びこめません。だれかと喧嘩するときには、自分が殺されることを予想したうえでないと手が出せません。それは、いつでも虚無から発想発足するということです。全き否定から肯定を引きずりだしてくるということです。そういう哲学上、人生観上の心法が西洋にも東洋にもこれまでありました。ことに東洋のうんだ深い知恵のたいがいは、この手の心法をふくんでいます。老荘や道教や禅や真言、それから道元《どうげん》や日蓮《にちれん》や親鸞《しんらん》などのメトーデ、それから茶道の歴史上にあらわれている巨大な師匠たちの様式など、その、代表的なものでありましょう。
 ところが私のやつは、そのような高級なものではさらさらありません。臆病のあまり、怖いのをがまんして何とかやっていく必要から、考えに考えたはてに、たどりついた方式です。方式というよりも、ばかな猿が人のくれたラッキョウの皮をはいではいではぎ終ったら、中には何もなかったので悲鳴をあげて、それからは、どんなものを人がくれても、その中には何も入っていないと、はじめから思って皮をはぎはじめようと思うにいたったというようなことです。
 最初から、なんの期待もなんの望みも持たないようにして、しかし、もしかするともしかして、その中に食えるものが、ごく僅かでもあるかもしれないとの、ほのかな希望だけは捨てきれないで、それをしてみようということなのです。じつにミジメな話です。しかし私にはそうしかできないのです。ですから私の抵抗論は、最悪のことを予想したうえでの、しかしながらごく微量の希望は捨てきれないままでの、臆病者の抵抗論です。
 つぎに私の肉体の弱さのことを言っておかなければなりません。肉体の弱さといっても私の病弱のことではありません。精神が一度こうと決定したことをも、いざその場にのぞんで現実から本能的・衝動的に点火されれば、往々にして肉体はそれをうらぎって行動する。その肉体の弱さのことです。
 理智が論理的に考えつめて生み出したテーゼをも、じっさいの現場にさらしたばあいに往々にして感情はそれをうらぎると言ってもよい。肉体と感情は現実の実感にほだされたり追いつめられたりして、ひじょうにしばしば平常の冷静な思惟に矛盾したりそれを越えたりしてしまう。その「肉体のもろさ」のことです。
 たいがいの人びとがそれをもっています。とくに私のように本能的感性的な人間、しかも自分が動物のように本能的感性的であることを、ある意味でたいへん幸福な、よいことだと是認している私のような人間の肉体は、はなはだもろいのです。人と喧嘩するのがこんなに嫌いで臆病なくせに、自分および自分の親しいものが他から不当に侮辱される現場にのぞむと、ついカッとして喧嘩をすることがあるのです。
 さきの戦争中にしても、そうでした。戦前も戦争中も私の思想は戦争に賛成せず、私の理性は日本の敗北を見とおしていたのに、自分の目の前で無数の同胞が殺されていくのを見ているうちに、私の目はくらみ、負けてはたまらぬと思い、敵をにくいと思い、そして気がついたときには、片隅のところでではあるが、日本戦力の増強のためのボタンの一つを握って立っていたのです。
 これは、私の恥です。私が私自身にくわえた恥です。私の本能や感性が、私の精神と理性にあたえた侮辱です。肉体が精神をうらぎり侮辱することができるほど、私の肉体と精神は分裂していたということです。これは、まさに人間の恥辱のなかの最大の恥辱でありましょう。こんな恥辱をふたたびくりかえさぬように、私はしなければならない。私はそうするつもりです。たぶん、そうできるだろうと思います。
 しかしながら、いくらそのような決意をもち、考えぬき考えぬいておいても、またしても肉体はうらぎるかもわからない。肉体というものが、本来そういうものかもわからないのだ。また、もしかすると、肉体と理性とは近代においては、ある程度まで分裂しているのが自然で合理的なのかもわからない。また、もしかす
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