ると歴史における人間の現在の段階は肉体と理知のこのような乖離《かいり》というところにあるのかもわからない。また、もしかすると、これまで人間を存続させ、人間の文化を進歩させてきたものはほかならぬこの肉体と理知の分裂であったかもわからない。もちろん今となっては、この分裂は世界と人間を混乱させ衰弱させるマイナスになっているが、ある時期まではプラスであったかもしれないのである。そのプラスとマイナスの総決算への中間報告的な、またラップ・タイム的な段階が現代かもわからない。また、もしかすると、人間の肉体と理知の現在のような分裂状態はその二つのもののより高い統合という峰《みね》にのぼる直前の、ふかい谷底の風景かもわからない。……いろいろのことが考えられます。
いずれにしろ現前の事実としては、私は私の肉体を愛するが、完全には信頼しきれないのです。私の精神が、どのように私の肉体の条件や本性を考慮にいれ、それとの調和統合においてゆるぎのないと思われる抵抗論をつくりあげたとしても、将来私の肉体が、私の抵抗論を絶対にうらぎることはないとは、私は言いきれない。自身にたいして、いちまつの不安があります。私はこの不安をかくしてはならない。また、かくしえない。私は英雄ではありません。卓越個人ではない。あらゆる意味でふつうの人間です。
私の抵抗論はそういう地盤に立っての抵抗論です。
6
これだけを君にわかってもらったうえで、私は私のしようと思っている抵抗を具体的に列記します。
まず、私は何にむかって抵抗するか?
それには、ひろい意味のものと、せまい意味のものがあります。ひろい意味のものとは、政治・経済・言語・文化・教養・習慣・生活様式などのすべての領域にわたって、日本および日本人が拠《よ》ってもって立っている伝統のなかの良きものを、阻害したり腐敗させたり死滅させたり歪めたり侮辱したり植民地化したりする、いっさいの内外の力にたいして抵抗するということです。せまい意味のものとは、ハッキリと目に見える形で日本人の生命や財産や国土を害し、または奪うところの内外の暴力、そのもっとも大きな現われである軍事力の発動にたいして抵抗するということです。
この二つは、同時的に統一的になされます。そして抵抗はあらゆる手段をもってなされるが、ただ一つ暴力による手段だけは、かたく除外される
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