るために使われるノシボウみたいに持ち出されているきりだ。実際において、こんな事があったのだろうか? 私にはほとんど信じられない。ほとんど信じられないけれども、やっぱりこんな事があったのだろう。と思う他に、どのように思う手がかりもわれわれには与えられていないから、しかたが無い。とにかく、この伸子の厳酷なエゴイズムと、それを結局において徹底的に是認している作者の態度と、共にブルジョア気質の一特色だと私は思った。

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 次ぎに、その生活感情と表現における「好み」や「趣味性」や「習慣」という点でもこの作家が強くブルジョア気質である証拠であると私に思われる個所や要素を、此の作品の中に、無数に指摘することができる。その例をただ一つだけ。作中、終りに近く逃げ去って行きかけている伸子をなんとかしてつなぎとめようと焦慮した夫が、泣いて迫りながら「まだあなたは私を愛している?」と言って伸子に抱きつく所がある。それが、[#ここから横組み]“Do you still love me ?”[#ここで横組み終わり]と書いてある。そこの所を読んでいて、私はゾーッと総毛立ち、ムシズが走って、しばらく、とまらなかった。そしていろいろに考えてみた。第一に考えたことは、作者は、これによって、この男の異様に強直し、病的に西洋化した人柄を描いて、それに対して伸子の感じている嫌悪又は違和の実感を読者にまで移入しようと思ったためだろうかと言うことであった。第二に考えたことは、しかしそうならば、そのような人柄の男を、すくなくともその前には結婚するに至る程度には「愛した」伸子がいるのだが、するとその伸子はどういう人間であった事になるだろう? なぜなら、伸子は何からも強制されたり、ハメこまれて、この男と結婚したのでは無く自ら選んでそうなったのであり、又この男の性質が結婚後、急にそのようなものに変る筈は無いだろうし、事実変ったようには書いて無い。第三に考えたことは、もしかすると作者は実際その時にその男がそういう英語で言った事をおぼえていて、それをただ単純に書き写したに過ぎないのかもしれないという事だ。そして、もしそうならば、このような異様さや「ハクライ」が、この作者にとっては別に異様にも「ハクライ」にも感じられない位の日常茶飯になっているからであろう。ということは、そのような作者の状態そのものが異様で「ハクライ」だからだろうと思われる。以上三通りに考えてみた。そして、第一のように考えても第二のように考えても第三のように考えても、そのいずれもが、非常に強くハッキリとブルジョア的な「好み」と「趣味性」と「習慣」を現わしている事がらだと思った。
 次に、この作者がこの作品の中でトギすましている冷酷さ。全く無反省な敵本主義的な冷酷さが、私には強い印象を与える。実にそれは小気味が良い位のものである。この伸子やこの作者が無反省であるなどと言えば、人はチョット変に思うかも知れぬ。しかし、よく読んでみようではないか。なるほど、伸子も作者も、あらゆる個所でいろいろの反省をしている。又は、しているらしく見える。しかしそれは、いつでも伸子の立場を根本的には危くしない範囲内でのみなされている反省である。だから、それはホントは反省ではない。ばかりでは無い、逆にそれらは「兇器」になっている。というのは、とにかく形の上では伸子はムヤミに「反省的」な人間として描かれており、その伸子に相対する夫は珍らしく「無反省的」な――というよりも精神的にひどい盲点を持った人間として描かれているために、読者の目の前でキズを受けるのは、いつでも夫であり、とくに扱われている問題の性質上しまいに行くにしたがって、この夫は完膚無きまでに手キズを負わされてくる。その手段と経過と結末は、二重三重に念入りで、ほとんど残酷といってもよい位である。それはダムダム弾式の残酷さだ。入り口は小さく、それとなく見えるが内臓をズタズタに引裂く。むしろ、この作品が、たとえば「別れたる妻が別れたる夫に送る手紙」と言ったふうの形と態度で書かれ、その中でその妻が直接的に夫の非を鳴らし、悪をあばき、嫌悪と憎悪を叩きつけた方が、まだしも、相手の男を傷つける事がこれよりもすくないであろうと思われる。これは冷酷というものである。そしてこの冷酷さは近代的リアリズム小説作法が命じている冷酷さとはちがう。近代的リアリズム小説作法の命じている冷酷さは、作中の人物のことごとくを、ホントに等距離に置いて、同時に突き離して見るという事である。『伸子』においては、そうなってはいない。これは、ただ単に非人間的なまでに念入りにエゴイスティックな、二重にマキアヴェリ風な冷酷さである。そしてそれはもちろん、ブルジョア気質のチョウコウの一つだ。
 チョウコウは、まだ他にも
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