には思える。その証拠を、もうすこし、作品自体から引き出してこよう。
この中の夫は、最初から、極端に言えば第一ページ目から、将来伸子との夫婦仲がうまく行きそうにも無い「必然性」を背負わされて登場する。実にたまったものでは無いのである。つまり、後半に至って伸子をジャステファイするための用意が第一ページ目からしてあるのだ。このカンジョウ高い「計画性」は、先ずブルジョア以外のものでは無い。しかも、そのような男を好きになった――すくなくとも、それと、いったんは結婚する程度には好きになった伸子がその選択と愛情においてバカでもなければ、まちがってもいなかったと思われる程度の――思われるに必要にして充分なる程度以上でもなければ以下でも無い好もしさを持った男として押し出されている。つまり、伸子がどっちに転んだとしても、非難されるのは伸子でなくてすむように、二重三重に布陣してあるのだ。それらが、恐ろしく手のこんだ近代リアリズム小説作法的「必然性」の定跡で武装してある。つまり、伸子(したがって深い所で作者)は、絶対不可侵に神聖に守られているのである。実に用意周到だ。この種の用意周到さはブルジョア的気質に一番特有である。別の言葉では、これを、ズルサという。次ぎに、以上のことからもわかるように、この伸子は(したがって、深い所で作者は)いつでも、そして遂に、彼女自身をしか愛さない。おそろしく厳格に――時によってヒステリックにモノマニアックにさえ自分自身だけを愛する。他を愛することからひきおきる自我の軟化や忘却やトウスイや自己放棄などは、ほとんどこの女には無いかのようである。その夫との愛情の成育から結婚に至った生活の中に現に多少でもそれらがあったのであったら、よしんば、それらの一切が既にくずれこわれてしまって、その全体を否定的にしか振り返り得ない回想の中でさえも、それらは浮びあがって来るのが自然だし、浮びあがって来れば、この作品のそれにあたる個所々々に、無意識にさえもそれらの後味がにじみだしてくるのが自然だろう。それが、ほとんど無い。すくなくとも、私には、感じられなかった。伸子と夫との夫婦関係は、主として、ただ、伸子という女が、より大きな人格になるために、どうしても通過しなければならなかった煉獄または修養場のようなものとして設定されているきりである。夫は、ただ、伸子を、よりよいウドンに作りあげ
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