私をゴウマンだと言って笑う奴があったら、笑え。仲間が、ヘンなものを食おうとしているのを「おいおい、それは食わん方がいいよ」と気をつけてやる事が、それほどゴウマンな事ならばだ。
その一語というのは、
「文壇」から絶て、ということだ。
解説はいらぬ。文字通りの意味である。諸君が戦場に立っていた時のように。諸君が第一作を書いていた時のように。「文壇」から絶て。
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ブルジョア気質の左翼作家
1
こんどは左翼的な作家の二、三人について語るつもりだが、それには、まず宮本百合子のことを、ぬかすわけにはゆくまい。ところで、なによりも先きに言っておかなければならぬ事がある。それを言わないままで話を進めることは、宮本に対して不公平であるように思う。
それは、宮本百合子を私が、きらいであるという事だ。彼女の処女作以来、現在にいたるまで、一貫してこの作家を好かぬ。これは私において決定的なことだ。そして、もちろん、或るものに対する好悪の感情を、そのものに対する評価や批判の中に混ぜてはいけないという考えに私はさんせいである。だから、なるべく混ぜないように努力してみるつもりである。つもりではあるが、結果として、それが全く混じらないことを保しがたい。読む人は、そのつもりで読んでほしい。とくに、宮本氏自身に向って、最初にこの点の許しを乞うておく。ゆるしてください。
ついでに、なぜキライかの理由を、書いておく。
たとえば、彼女の処女作「貧しき人々の群」が、或る意味で或る程度まで良い小説であることは私にもわかる。わかりながら読んでいる最中でも、読みおわった後でも、私は非常に不快になる。不快の原因はいろいろあるが、その一番の根本はこの作家がこの作品の中で非常に同情し同感し愛そうと努力している――そして遂に全く同情もしなければ同感もしなければ愛しもしていない――と私には思われる――その当の「貧しい人々」の一人として私が生まれ、育ち、生きて来たためであるらしい。
そのような出生と経歴とを、私はいまだかつて一度も、誇りに思ったことも無いし、恥じたことも無い。私にとって、それは、かけがえの無い唯一の、したがって貴重なものであった。とくに自分のそれが他よりも不幸であるなどと思ったことはメッタに無い。しかし、正直、「つらい」と感じたことは度々ある。そして、たとえ
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