してほとんど激烈と言うに近いものなのだ。もっと強く来そうなものだと思う。それが何か白々と――と言えば言い過ぎるが、とにかくピタリとこちらの肌に迫って来ない。どうしてだか、よくわからない。もちろん私のがわの責任もあろうが、作品にもその理由がありそうだ。それを考えて見た。
 第一に、作品に描いてある諸事実が事実としてプロバブルなパスポートを持っているだけにとどまっていて、それらの客観的な実在についてまったく疑いを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]しはさむ余地が起り得ないほどに煮つまったものでないことである。
「さもありなん」程度であって「そのものズバリ」の実在感にとどいていない。記録物ないし記録的要素の上に立った作品に往々にしてあるところの「二重の虚偽の感じ」はまったくないが、ザッハリッヒな圧力は来ないのである。作の基調になっている、また部分としても最も大きな部分を占めている記録的な要素がザッハリッヒに「物それ自体」として来る以前に「ザッハリッヒな感じを生み出すための小説作法」として来てしまうのである。もちろん、現実の取り扱い方が着実であるために、よくある「小説のハメ手」には感じられない。あるいは作者はただナイーヴに「このようなことがあったから、それをそのまま書いたまで」かも知れないとも思う。そう思われるフシがかなりある。つまりなかば無意識の布置であったかもしれない。しかし、小説作法をまったく考えないほど、また、そのような意味でナイーヴではこの作者はないようだ。その証拠は、すでに最初からの視点(ポイント・オヴ・ヴュウ)の置きかたに示されている。つまり、この作者はホントは終始一貫主人公小畑耕二の視点に立って(小畑を「私」として)書きたく思ったか、または書かなければならぬと思ったかではなかろうか。しかし、それで書くと、書けない部分ができてくる(たとえば、作中「八」その他)。そのために、小畑の視点を中心にした第三人称で書くことに決めたのではなかろうか。これは私の推測だから当らぬかもしれぬが、とにかく作者はこれだけの物を書くのに、どこに視点を置くのが最も有利かということを(――つまりそれが小説作法なのだが)考えたろうと思われるし、事実考えた結果起きた抵抗の痕跡らしいものも数個所で指摘できる。つまり、文字通り日記を書く時のようなナイーヴさで書
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