は共存し得ない。(このことについては、不完全な形でだがすでに二、三の場所で私は私見を述べた。今後も述べるつもりだ。実は今していることもその一つである)すくなくとも、さしあたりは、双方の根本的な個所で背反する。しかも中野は幸か不幸か、かなり鋭い芸術家的気質や芸術的洞察力に恵まれている。そのために中野の内で、マルキシズムと芸術とがぶっつかり合って、いつでもあれやこれやのゴタゴタが起きているのではないかと思う。ゴタゴタはソッとして置けば、それなりでやって行ける。しかしゴタゴタの中で、いったん文学を生み出そうとなると、芸術とマルクシズムが背反しはじめる根本的な個所のズーッと手前のところで作品を生み出す以外になくなる。また、その二つの最大公約数(その数値は非常に小さい)として生み出す以外になくなる。それが中野の作品である。彼の小説が断片になりがちな理由はここにもあるわけだ。平野謙が中野の小説について言っている「わかりにくさ」も、一つは中野の「素朴病」やポーズからも来ているが、右の理由からも来ている。また、中野が宮本百合子のように「かしこく」も、別の意味で徳永直のように「バカらしく」も小説らしい小説が書けない理由もこのへんにある。小説家中野は、さぞ苦しいだろうと思う。注意しなければならんのは、或る種の苦しみは、或る程度内で或る期間の間くりかえされると、変てこな楽しみになってしまうということである。そうなれば、これまた、ポーズということになる。その人のポーズはその人の地獄だ。同時にその人のアヘン窟である。中野の状態がはたしてそんなふうにまでなっているかいないか私は知らぬ。しかし中野の小説が、「クサヤのヒモノ」のような匂いを持っており、近来とくにその匂いが強くなって来ている事実を、私としては右のようなことがらと関係させないでは考えられないのである。中野がもし小説家ならば、または、もしマルクシズム理論家ならば、そして、そのいずれの側でも、もしホントの答えを出したいならば、彼のフルのところで、彼のトップのところで、ギリギリいっぱいの、恥の外聞もポーズも投げ捨てたところで、投げ捨てざるを得ないところで、つまり、タブロウとしての小説を書いて見せてくれなくてはなるまい。問題は、そこいらから、やっと始まると思う。そして私は中野がそれをして見せてくれるだけの能力を持たない人だとは思っていない。
前へ
次へ
全137ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング