かない。小説はズット先きにあり、そしてそれがズット先きに置かれてあるかぎり、可能性であり得る。つまり彼は断片を書いてさえおれば或る種の小説家なのである。重要な点は、そうしてさえおれば、彼は彼の達している理論的高さや完全さを、ゆすぶり立てないで過ごして行けるということだ。これを彼が全部意識的に――ズルく計算した上でやっているとは私には思えない。計算してやっている部分もあるが、大部分は無意識に、または追いつめられた形で、しょうことなしにやっているのではないかと思う。いずれにしろ、そういうことを久しく続けている間に、当然のこととして、ポーズに深く侵されてしまった。そして今となっては、中野がいてその上にポーズがくっついてしまったのか、シンから底までそのポーズに見えるものが中野の正体なのか、ちっとやそっとでは見分けがつかないくらいになってしまった。それが良いことか悪いことか私にはわからない。しかし、それがそうであるかぎり、中野がホントの小説家――小説に自身の全部をかける者――になり得ることはないように思う。そして、そのような小説家や小説は私にすべてキザに見える。小学生が大学生のマネをするのはキザであるが、大学生が小学生のマネをするのはさらにキザに、二重にキザに見えるし、そして前のキザはわりに治りやすいが、後のキザは容易に治らない。中野の小説は、その後のキザに私に見える。
 実例を一つだけあげる。「よごれた汽車」の中で「女は五十すぎの年配で、上等でない商売をしていた人のような黒い顔をしていた」と言う句がある。「上等でない商売」というのはインバイかインバイ屋のことではないかと思われる。もしそうなら、なぜそう書かないのだろう? 下品になるからか? いや、そうは思えない。それとも、ただ「低級な」または「あまり儲からない」等の意味だろうか? それなら、これまた、なぜそう書かないのだろう? 小説家なら、「ような」と書いても、その想像力の中で何かのイメージや連想を持っただろうし、持つはずだし、そして持ったのであれば、こんな「手前のところで気取った」表現をとる必要はない。いや、だから、これは表現ではないのだ。表現とは、「あえて、踏み込んで、決定する」ことだからである。
 これだけではない。あちらにもこちらにも、この種の表出がある。他の二篇の中にもたくさんある。しかも、これが文章だけのことでは
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