タで、そしてヘタを気取るのは今にはじまったことではないから、そのことから今特別の刺戟を受けたりはしない。私の考えたのは、それとはチョットちがったことである。それはこうだ。
 この三篇を「小説」と言われても、別に私に反対すべき理由はない。雑誌の小説欄に組んであるから小説なんだろうと言ったふうのシマリのない気持で私は雑誌小説を読んでいる者だから、どんなに小説らしくない物を読まされても、たいがいびっくりはしない。やあヘンテコな小説だなあと思って過ぎてしまう。
 この三篇を読みおえた後でも、なんだかわかったようなわからんような、おかしな小説だと思い、そのわからなさ加減が私に不愉快であったが、それはそれとしてそれ以外に、またそれ以上に、三篇とも小説として何か異様に欠けているものがあるのを感じた。しかも、かなり重要なものが欠けている。その欠けかたまたは欠けた理由または原因として私に考えられたものの中に問題があると思われた。
 第一に、中野は作家であるよりも芸術理論家ではあるまいかという彼についてかねて私の抱いていた見方を、もっとハッキリと強くしたこと。というのは、この三篇の中で中野は、芸術理論を展開する時のように彼のトップのところで、彼のフルのところで動いてはいない。つまり、カンカンになって書いていないのだ。もちろんナメて書いているのではないが、自分の持っている手段と精力のありったけをつくして、そのトッパナのところでノルかソルかと言った式に自分を働かしてはいないのである。中野は理論的展開をやったり、特にポレミックの場合には、それができる人だし、現にやっている。小説を書くのにそれをしないのは、やれないのであろうか、何かの考えがあってやらないのであろうか。どちらにしろ、そのへんに小説家中野の重大な特質も有るようだし、そして彼の小説が重要なものを欠いでしまうのは、そういうところから来ているように私に思われる。
 昔私の知っていた画学生にこんなのがいた。美に対して非常に大きな能力をこの画学生は持っているらしく見えた。絵画に対する彼の鑑賞力や批判力は鋭く、そして、おおむね正鴻を得たものであった。美学や絵画理論について彼が樹立したシステムは相当に高く堅固なものであった。絵を描かしても、うまい、ただし、それはデッサンやクロッキイやスケッチにかぎられた。タブロウは描かない。たまに描いても、まと
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