者がそのようなことを意図しているのだとは思えない。ただ無意識にそうしているだけである。よって来るところはまずこの作家の感覚の鈍化だ。次ぎに文章的表現についてのモノグサである。二つとも根本的には現実に対する「火」の消耗から来ている。大事なことは島崎藤村におけるがような、部分々々の描写におけるなまなましいものを回避することによって、全体としての、より大きな現実感を生み出すという方法から、これは区別されなければならない。広津が意図しているものは藤村あたりとはまったく違うと見てよい証拠があるからだ。それ故に私はこれを「下手クソ」と見る。そして下手クソはあらゆる場合に好ましいものではない。「ひさとその女友達」から、その他の弱点や、更に多くのすぐれた点を拾いあげることはできる。しかし、それらはさまで重要なことではない。そんなことよりも、この小説から私が考えたことでもっと根本的な、もっと一般的なことがあるからそれを書く。
 それはこの小説の「古さ」とこの小説における作者自身の自我の位置のことである。もちろんこの二つは相互に関係している。

 先ず古さについて言うが、たしかにもう古い。古いことが善いか悪いか私は知らないし、また、善い悪いを言って見てもしかたがない。ただ、とにかく、全体の構成も部分々々の切りこみ方も、それから文脈も、文章もそれらのテンポも、それから、ひさ夫婦と加代子夫婦の対位法風の処理のしかたも、古い。それが私のセンスに抵抗を感じさせる。「時代」を感じさせる。小説は文芸の中で一番今日的なセンスのものであろうし、ありたがる形式だ。今日的センス(私のセンスが百パーセント今日的なものであると独断しようと言うのではない。しかしこれは説明する機が来るまでそのままにしておく)に無益に抵抗する古さは、小説として長所とは言えまい。しかし、古さがそれだけならば、多分、この作品の決定的な弱点にはならないだろう。困るのは、その古さが、もっと根本的なものにつながって生まれて来ている点にある。それが、つまり、作品の中での作者の自我の位置のことだ。
 作品と作者の自我の関係と言ってもよい。それが古いのである。そしてこの場合の古さは、私から言うと、まちがった古さなのである。
 作者は、神の如く「下界を見おろして」書いている。神は下界の人間たちを一視同仁にあわれみ、愛し、許しているということは、一視
前へ 次へ
全137ページ中124ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング