かるまいが、そんなことは私の知ったことではない。
 だから、私は、その時その時に、過去三、四ヵ月の間に私が自然に読み過ぎて来た作品の中で、とくに私の注意を引いた作品を論評する。論評と言っても、かならずしも作の是非を言い立てたり、価値を上下しようと言うのではない。私という一人の人間が、それらの作品をどんなふうに読んだか、読みながら何を感じたか、読みおわって何を考えたか、と言ったふうのことをのべる。
 一貫して私が守りたいと思うのは、あくまで作品自体に添ってものを言うという方式だけである。

「ひさとその女友達」――広津和郎(『中央公論』十月文芸特集号)
 広津和郎が久しぶりに書いた(久しぶりではないかも知れないが、私の目に触れたものとしては久しぶりであった)この小説の題名と名前を見た時には、大変嬉しかった。誇張して言えば胸がすこしドキドキしたくらいである。期待と危惧が半々に入れまじっていた。「よい小説であってくれ」という気持と「どうせまた下手クソだろう」という気持が入れまじっていた。そして読んだ。
 しばらく前に私は広津の大概の小説が下手クソであり、そして何故下手クソな小説を彼が書かざるを得ないかと言ったことがある。「ひさとその女友達」は下手な小説ではない。私は非常に嬉しい気持で私の言葉を撤回する。いやいや、そうではない。下手は相変らず下手だ。それでいてこの作品がよい小説であることをさまたげていない。下手な小説がよい小説と言えるであろうか?
 そうなのだ。言葉のそのような使い方に私自身がひっかかっているのだ。いや、言葉というもの自体が、このように人をひっかけるものなのだ。世の中には「ヒョットコ面の好男子」も存在している。「下手な、よい小説」があって悪いわけはなかろう。ただそれには説明を要する。実は先に広津の小説が下手クソだと言いきった私の言葉の中にもこの意味が含まれていなかったわけではない。そのことを此処でもうすこしくわしく述べ、あわせて話をもうすこし前へ進めて見る。
 最初に打たれたのは、この小説の持っている実在感である。最後までそれは非常に力強く確かな形で持続する。女給上りのひさという中年女が、その人の好い平凡な――アヴェレヂな日本人大衆の中の一人の女として戦争中から戦後をウロウロと生きて来て、現在梶野というぐうたらな男を相手に暮している姿。生活に対して相当勘定高
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