生活のためにも魂のためにも、批評は彼等にとって、しないではおられない仕事ではないのです。せいぜい「アルバイト」程度です。そのような発言は結局は力あるものには成り得ないでしょう。述べられた意見そのものが意見だけとしてはどんなにすぐれたものであった場合にもです。たとえば「第二芸術論」などという立派な批評がこの人たちの間から生まれても、結局はその第二芸術そのものに対してはツンともカンとも響いて行かなかった事なども、そのためではないでしょうか。つまり、「第二芸術論」を言い立てている当人自身にとって批評が全身心を張ったものではない。つまり皮肉なことに、花鳥風月を叩きつけている当人にとって、その論そのものが花鳥風月、つまり「第二仕事」であるからではないでしょうか。ところが、第二であろうと第八であろうと芸術を生む仕事は、修羅場の仕事です。批評もそうです。何か大事なものを賭さないでは人は修羅場に足を踏み込むことはできますまい。そんな人が、わきの高見から(それがどんなに高かろうと)うまい事を言ってみても修羅場にいる人は、ただ聞き流して置くか、又は引っこんでいろと言い捨てて置く以外に無いでしょう。
 岩上順一とか小田切秀雄とか杉浦明平とか。ほかにもまだたくさんおりますが、左翼的な批評家たちの批評も、たいがい、丹念で立派なものですが、私にはつまりません。興味は主として批評が対象にしている素材と、ものの言い方の中にあるペッパアの利鈍に感じられるだけです。つまり、尺度が適用される物と、適用のされ方に多少の興味があるだけで、尺度そのものは一定しているからです。もちろん、だからまた、批評の職能の一つである指南力に欠けたところはありません。針はいつでも南を指します。クソおもしろくもないとも言えるのと同時に、これについて行く気になってついて行きさえすればまちがいがないから、安心しておれるとも言えるわけ。批評する方でもその限りでは安心と自信をもってやれるわけです。しかし、いったんその尺度自身に疑念を持ちはじめると、非常にめんどうな事になってきて、批評はチョットわきにやって尺度そのものを調べて見ようという事になります。そしてそれがまた、たいへんな仕事で、チョットやソットではキリがつかない。残るところは、こいつをウのみにするか、敬遠するかの二途しかないと思わざるを得ない位にめんどうな事になります。それに、
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