の色と恋と性慾を持っている腰抜けでない人間にとっては、そんな冷やかな観照は、なんの役にも立ちますまい。そういう意味で、この人たちは既に非人間的で、古いのです。文学芸術はタテのつながりから見ても横のひろがりから言っても生けるイノチなのですから。
在るがままの人生、在るがままの文学の味が深く複雑に充分にわかりながら、しかしその上に立って、在るべき人生や在るべき文学の途を見出したり生み出したりすることは出来ないものでしょうか? 私は出来ると思います。それが、ホントに人間的な、そして実はもう一段高い達人の姿だと思います。そして、それが新しい態度だと思うのです。言って見れば、七十才になって十九才の処女に恋をしたゲーテは、「ヰルヘルム・マイステル」を書いた時のゲーテよりも、より高いし、より新しい。「大通」が、大通のままでオボコ娘に恋をしたら、それこそ「大々通」でしょう。青野や正宗や宇野が文学に対して助平なことはまちがいありません。彼等の前に文学が昔の恋人のようにではなく、また、古女房のようにではなく、新しい恋人のように立ち現われ、見えて来る事はあり得ないでしょうか? あり得るだろうとは、にわかに私には言えません。しかし、あり得ないとは、私は思いたくありません。そして、もし、それがあり得たら、彼等の批評の中に火が、パトスが、生み出されるでありましょう。つまりホントに立派な批評になるだろうと思われます。「それを読んでも、どうしてよいかわからない」批評を書く人に小林秀雄および小林と似たような行き方の批評家たちがおります。福田恒存などもその一人でしょう。勉強家ぞろいで、頭が良い。時々おそろしく鋭い、うがった事を言います。それで、ついて行っていると、そのうちに、前に言った事とは正反対のことを、やっぱりおそろしく鋭い、うがった言い方で言って前に言ったことを根こそぎひっくり返して見せたりします。どちらも当人はチャンとやっているのでイカガワシイ気持はしませんが、ギョッとはします。読んでいて困ることは事実です。パトスでふくれあがっている。だから非常なオシャベリになるか、でない時は失語症みたいになる。批評の言葉から血が流れ出すこともある代りに、べた一面にヘラズぐちにヨダレをまぜて垂れ流す時もある。ずいぶんいろいろにソフィストケイトしている。この人たちの批評を読んでも、頭脳の体操にはなるが、客観的
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