」に書いた一連のエッセイは、いくらか評判になったそうです。現にあなたも、あれに注目してくださった一人です。いろいろの反響を総合して見るのに、話半分に聞いたとしても、或る程度のトピックになった事は事実のようです。それが、はじめ私には不思議でした。次ぎになさけなく思われました。やがて不快になったのです。
 なぜなら、あれらのエッセイの中に、私は、格別にすぐれた事や変った事や独創的な事など、ほとんど書いていません。私の発言の出発点は平凡な常識にすぎませんし、そこからの展開の範囲も、常識の域を一歩も出ていないのです。これは一般的に言ってもそうでありますし、私自身のことだけを言って見ても、そうしようと思えば、すぐれた事はどうか知れませんが、もうすこし変った事や独創的な事なら書けそうに思った事がありますが、わざとそれをしないで、ホントの常識論だけに自分を限ることに努めたのです。そこに書かれてあることは、私自身にとっても人々にとっても、文芸やイデオロギイについてのABCに過ぎないのです。これは、ケンソンして言っているのでも、同時に、威張ってモッタイをつけるために言っているのでもありません。
 その常識論のアタリマエのことが、とにもかくにも、或る程度のトピックになったという事は、どういう事でしょうか? あの程度のことが多少でも問題になった、問題にならなければならなかった一般の空気というものは、一体なんでしょうか? つまり、そのような今の日本の文芸界というものは、ぜんたい、何かという事です。私が不思議になり、なさけなくなり、不快になったというのは、それです。
 或る人にこの事を私は語ってみました。その人は、こう答えました。
「そうです。ホントは誰でも知っていなければならない常識論が、すぐれた著しい言葉のように聞える――それが今の文芸界という所です。そういうふうになってしまったんですね。それを常識として理解している人たちは沈黙して語らないし、それらの常識を身につける必要のある人たちは、いくら説かれても遂にそれらを理解しないでしょう。現代日本文化のホントの悲劇がそこにあります」
 私もそう思いました。悲劇だけでなく、恐怖もそこに在ると私は思いました。現代日本文化の恐怖です。恐ろしい陥没です。そうではありませんか。私はかつて夜汽車で一箱ほとんど全部の乗客が闇のカツギ屋の中に自分一人で乗って
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