知れない。そんなものが有ったら、ヘドの中をかき捜し拾いあげて、食います。今のぼくらの身分では、きたないなどとは言ってはおれません。つまり、こうなんです。ぼくらは、この十年二十年を虫のせいや、カンのせいで生きて来たのではない。それぞれ、セイいっぱいにやって来たのです。その中に、取りかえしのつかない、否定的な事がらが、どんなに充満していたとしても――事実充満していましたが――それを否定するあまり、また、すべての否定に附きものであるところの感傷的、英雄主義に酔って、この十年二十年の内容の全部――つまり、ぼくらにとって肯定的な事がらをも含んでいる実体――と言うよりも、ぼくらの十年二十年のイノチそのものを、全部的に否定し去るほど、私は淡白ではないのです。すべての人も、それほど淡白でないほうがよいのです。ホッテントットにとって存在しているような意味では『奇蹟』は、ぼくらには存在していません。もし、これから先き、ぼくらが進歩し得るものならば、ぼくらの過去十年二十年および現在の中に、なにかの形でその進歩の種か芽かモメントかバネかが存在していない筈はないでしょう。また、もし、ぼくらが世界人としての場を要求し得るほど育つことができるものならば、この十年二十年および現在の日本的な場の中に、その世界人としての資格の土台のひとかけら位が、どうして見つけ出せないわけがあろうかと思うのです。……とにかく、私は、食いさがって行ってみます。仕事の性質上、吐剤は悪口が多くなります。悪口を吐くと、人から憎まれます。憎まれるのは私も好みません。さいわい、私は文壇づきあいを全くしない人間だし、どんな種類の党派にもぞくしていない人間だから、文士たちから憎まれてもかまわないようなものの、気が弱いから、気分的に、イヤなんです。しかし、ある程度までそれも、やむをえないでしょう。それに、読んでもらえば、たいがいの人たちにわかるだろうと思いますが、私は、人にばかりヘドを吐きかけて自身に対しては吐きかけまいとするのではない。ヘタをすると、一番の悪臭を放つやつを――さらに悪くすると血ヘドなどの混っているやつを、自身の頭から吐きかける危険が無くは無いやりかたでやるのですから、それに免じてあまりに強くは私を憎まないでほしい。しかし、どうしても憎まざるを得ないならば憎みなさい。イザとなれば私にしても、或る程度までの憎しみに耐える
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