え、彼はかえって弱くなってしまったように見えます。いや、単に弱くなっただけでなく、一種の腰抜けになったように見えるのです。自分が最善をつくして創りあげた物を、それから三、四カ月が経ったばかりなのに、それほど根本的に否定しなければならぬと言うのは、どういう事でしょう? 彼は作品を書く時に「あり得る」あらゆる事を考えたり見きわめたりしなかったでしょうか? どんな偉い人にもある、またどんなに注意しても避けることのできないところの盲点ということを計算に入れても、盲点による見落しは大体において部分的または第二次的なものであるのが普通であって、それほど根本的徹底的な否定を引きおこさなければならぬ理由になることは、ほとんどないのではないでしょうか? ですから、三、四カ月後になってそれほど根本的徹底的に否定しなければならぬような作品を、三、四カ月前になぜ書いたのか、どうして書けたのか、とも言えます。そんなものを書くのは、作家としてまちがいではないかという気がするのです。作家も社会的に存在しているのですから、社会的な責任は負わなければならないのですが、その責任をY君は自分勝手に逃げているようにも思われるのです。つまり極端に言えば「そんな物をドダイなんで書いて発表した?」と言われても、しかたがないのではないでしょうか? そして、三カ月前に自分のした認識や評価(=創作活動)を現在これほど完全にデングリ返すことの出来る人は、同時に現在の彼の認識や評価を又々三、四カ月後には完全にデングリ返し得る人ではないでしょうか? そして、そのような行き方が習慣化してしまったとしたならば、その当人もその人を眺めているわれわれも共に、拠るべき所を全く失ってしまって、認識や評価の不能状態に陥るのではないかと思われます。
Y君の自己批判や反省力と見えているものは、実は錯乱またはヒステリイではないでしょうか? でなければ、軽卒いな浮薄ではないでしょうか? すくなくとも、そのようなものを非常に多く含んでいるように思われます。そこからは、頼りになるものや持ちの良いものや堅実なものや――つまり「腹のたしになるもの」は何一つ生まれて来そうにありません。重大なことは、われわれ日本のインテリゲンチャが一般に、今になっても未だ、このようなエセ自己批判癖やエセ反省力を非常に豊富に持っており、かつ、それを何かすぐれたもののように
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