上で、特攻隊くずれの青年がゴロツキになったりドロボウになったりしている事を、たいへんはげしい言葉でフンガイしたことがある。私はビックリした。志賀らしくないと思った。その次ぎに、しかし、いかにも志賀らしくあるとも思った。どちらに思っても私はゲッソリした。そして志賀を憎んだ。今でもその点では憎んでいる。
志賀の意見の出どころが、そんなにまちがったもので無いことはわかった。意見そのものも、まちがっていたとは思えない。特攻隊くずれであろうと何であろうとゴロツキやドロボウは悪い。それはそれでよい。やりきれないのは、それを言う態度の薄っぺらさだ。それを『暗夜行路』の作者がやってのけていることだ。ぜんたい、この間の戦争をふくめての此の十年二十年を、その中でチャンと日本人として――その権利と義務を行使して――つまり、ホントにナマミで生きて来た人間が、どこを押せば、その十年二十年(自分自身をも含めて)の所産である特攻隊くずれを、あのように手ばなしに一方的に非難できるのか? 自分が特攻隊員だったと思ってみろ。また、自分のムスコが特攻隊員だったと思ってみろ。あの時、自分なり自分のムスコが特攻隊に引っぱり出されて、おれはイヤだと言ってことわれたか? もし、ことわれていたのだったら、特攻隊くずれを叱ってもよい。ことわれなくても叱っても悪くはないが、その時、あなたの胸の中に痛むものは無いのか?(そして私には、そのような痛みが彼の文章の中に感じられなかった)もし無いならば、あなたは、この十年間を「生き」てはいなかったのだ。『暗夜行路』の作家は、いつの間にか、偶然の特等席に引退してしまっていたのだ。それが今になって、こうだ。それはみっともない。戦争中カンゴクの中で戦闘機の部分品を作っていた共産党員が、終戦後とびだして来て、強制的に従軍させられた従軍文士を戦犯として罵りさわいだのよりも、みっともない。みっともない事をしたくないと言うケッペキさを一貫して持っている志賀だから、尚のことみっともない。私は志賀を敬愛すればするほど――いや、志賀を私がホントに敬愛するためには、彼の持っているこのような薄っペラさやモーロクやみっともなさを、私は憎まなければならぬ。
「正直にそう感じたから、そう言った」のだとは思う。もちろん正直に感じた事をかくす必要はない。現に志賀小説の土台の一つは、自分への正直さに在る。しか
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