また、いきなりそこまで飛びあがらないで、たとえば現代日本の女流作家だけを見わたしてみても、宮本百合子のミゴトに割り切った唯物弁証法的公式や社会主義的リアリズム図式の「布石」にひっかけられて、彼女が前もって作っておいたハメ手にはめこまれて、満足のような不満足のようなヘンテコな気分になるよりも、人生の苦しみと涙の味について宮本などよりも百倍もよく知っている――したがって宮本などよりホントは百倍もえらいところの平林たい子や林芙美子や佐多稲子などの、宮本のそれほど堂々とはしていないがモット真実ではあるところの、宮本のそれほどデスポティックな圧力は持たないけれどモット美しいところの作品や論文を読むことを私が尊び、それらの作品や論文を通して、たかぶらない自然な気持で、どうすれば人間はもっと幸福に社会はもっと明るくなり得るだろうかを考えさせられることを選ぶのも、やむを得ないのである。そして、ここには、長くなりすぎるから、その理由を書くことをはぶくけれども、ほかの人々も私と同じようになった方がよい。
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以上のようなリクツめいた事を全部抜きにして、ただ無責任に抱く興味という点から言っても、宮本の小説は私におもしろく無い。読みだしてすこしおもしろくなって来ると、たいがい、叱られているような気持や教えこまれているような気持や見せびらかされているような気持などが起きて来て、興味に毒液を入れてしまう。それというのが、この人は、結局、人間をあまり愛してはいないせいではないかという気がする。愛しているのは自身だけで、その愛は非常に強いようであるが、他を愛さないのではないか? 他を愛するのは、自分のヴァラエテイとしてだけの他を愛するだけではないか? いや、抽象的観念的には愛しているが、具体的実際的には、他の人々を愛していないのではあるまいか? そのような彼女が、最大多数の人々への実際的な愛というものでたえず裏打ちされていないと、ややともすればデスポチズムになりやすいところの共産主義的理論に立って文学を作っているために、なおさらその点が強められているのではあるまいか? そのために、あらゆるホントに良き作品が、底深い地下水として持っている「他に対するケンソンな愛」が彼女の作品に欠乏して、そしてそれが私に「おもしろく」無く感じられるのではあるまいか?
しかし、一般に彼女の作
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