ない。時間が充分でないのと持続的に描かないため上達はしない。それに一枚の絵を永くつつくタチなので完成した絵は極く僅かしかない。現在も描いている。原稿を書くために二時間も机に坐っていると頭が痛くなってくるが、頭の痛い時でさえイーゼルに向って絵具をいじっていると三時間ぐらいは夢中に過ぎてしまう。絵画は主として感覚中心の仕事ゆえ、人を酔わせる作用があるからとも思うが、それよりも私という人間が本来ひどく感覚的な人間のためではないかという気がする。五官が過敏すぎるのである。とくに嗅覚と視覚がそうだ。物の匂いがあまり鼻に来るので、まるで犬のようだと人からいわれたことがなんどもある。また初夏の林の道などを歩いていると、あまりに多種多様の緑色が見えすぎて、その刺戟のために目まいを起して倒れることがある。私が神経衰弱になりやすいのは、これらの感覚過敏のためらしい。時にそれが呪わしいような気がすることがある。しかし、次第に、それも自分に生れついたものだとあきらめるようになって来た。あきらめるというよりも、これが自分というものだ。これらの過敏さを抜きにしては自分というものは存在し得なかったのだ、これは自分に与えられたものだ、してみれば自分にとってかけがえのないという意味で貴重なものであると考えるようになった。
 私がゴッホに本能的に引きつけられることの理由に右のようなこともあるかも知れない。ゴッホの絵が唯単に良い絵として私に受け取られたのではない。実はゴッホの絵を「うまい」と思ったり、「美しい」と思ったりしたことは、ほとんどないのである。ただドキンとするような感じがこちらに来るだけなのだ。彼の絵を貫いている根源的なイノチのようなものが、他人のもののようでないジカな感じでこちらの内部に入りこんでしまった。だから私がゴッホから受けたものは影響とはいいにくいかもしれない。もっと中心的なところを動かされてしまったらしい。いわば私はゴッホを「食った」らしいのである。それが私の薬になったか毒になったか私は知らない。しかし、どうも食ったらしい。良かれ悪かれ食ったものは自分の血肉の一部になってしまっているのだろう。
 私が時々ゴッホの絵の「ヘタさ」かげんが鼻について「なんとまあ小学生のようなヘタさだ」と、まるで自分の作品のアラを見つけて嫌になった時と同じ気持に襲われたりするのも、そのためかもしれない。ま
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