に居ったのはおよそ一ヶ月位のことであったかと思う。これは最近帰省した時に極堂、霽月らの諸君に聞いた話であるが、その一ヶ月ほどの滞在の半ば以上過ぎた頃のことであったろう、ふと俳句の話が写生ということに移って、ぜひとも写生をしなければ新しい俳句は出来ないという居士の主張を明日は実行して見ようということになって、その翌日天気の好いのを幸に居士は極堂その他の諸君と共に珍らしく戸外に出て、稲の花の咲いて居る東郊を漫歩して石手寺の辺まで歩いて行き、それからまた同じ道を引き返して帰って来た。居士の、
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南無大師石手の寺や稲の花
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などという句はこの時に出来た句であるそうな。今から見ると写生写生といいながらなおその手法は殻を脱しない幼稚なものであるが、とにかく写生ということに着眼して、それを奨励皷舞したことはこの時代に始まっているのである。それから無事に宿まで帰って来て極堂君らも皆自分の家に帰ったのであるが、極堂君は晩餐《ばんさん》をすましてから昼間の尽きなかった興をたどりつつ、また居士の寓居に出掛けて行ったところが、居士は病床に寝たままで枕元の痰吐きに沢山咯血をしていた。枕頭についているものは上野の未亡人ばかりであった。居士が低い声で手招ぎするので極堂君が傍に行って見ると、それは氷嚢《ひょうのう》と氷を買って来てくれというのであった。そこで極堂君は取るものも取り敢えず氷嚢と氷を買って来たのであったが、その留守中に大原の叔母君と医者とが来て居った。その咯血は長くはつづかなくって、それから間もなく東京に帰るようになったのであった、ということであった。
漱石氏がよくまた話して居ったことにこういう話がある。
「子規という奴は乱暴な奴だ。僕ところに居る間毎日何を食うかというと鰻《うなぎ》を食おうという。それで殆んど毎日のように鰻を食ったのであるが、帰る時になって、万事頼むよ、とか何とか言った切りで発《た》ってしまった。その鰻代も僕に払わせて知らん顔をしていた。」こういう話であった。極堂君の話に、漱石氏は月給を貰って来た日など、小遣をやろうかと言って居士の布団の下に若干の紙幣を敷き込んだことなどもあったそうだ。もっとも東京の新聞社で僅《わず》かに三、四十円の給料を貰っていた居士に比べたら、田舎の中学校に居て百円近い給料を貰っていた漱石氏はよほど懐ろ都合の潤沢なものであったろう。
私は明治三十年の春に帰省した。その時漱石氏をその二番町の寓居に訪問した。その時私の眼には漱石氏よりも寧ろ髪を切っている上野未亡人の方が強く印象された。今から考えてみてその頃は四十前後であったろうかと思われるが、白粉《おしろい》をつけていたのか、それとも地色が白かったのか、とにかく私の目には白い顔が映った。漱石氏のところで午飯の御馳走になった時に、この色の白い髪を切った未亡人は給仕してくれた。最近私が松山に帰っている時に次のような手紙が案頭に落ちた。
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博多には珍しい雪がお正月からふり続いております。きのうからそのために電話も電燈もだめ、電車は一時とまるという騒ぎです。松山は如何ですか。けさちょっと新聞で下関までおいでの事を承知いたしましたので急に手紙がさし上げたくなりました。それに二月号の『ホトトギス』を昨日拝見したものですから。その上一月号の時も申上げたかった事をうっちゃっていますから。
一月号の「兄《けい》」では私上野の祖父《おじ》を思い出して一生懸命に拝見いたしました。祖父は以前は何もかも祖母任せの鷹揚《おうよう》な人だったと思いますが、祖母を先だて総領息子を亡くして、その上あの伯母に家出をされ、従姉に(あなたが私と一しょに考えていらっしった)学資を送るようになってからは、実に細かく暮していたようです。そして自分はしんの出た帯などをしめても月々の学資はちゃんちゃんと送っていましたが、その従姉は祖父のしにめにもあわないで、そしてあとになって少しばかりの(祖父がそんなにまでして手をつけなかった)財産を外《ほか》の親類と争うたりしました。漸《ようや》く裁判にだけはならずにすんだようでしたが、そのお金もすぐ使い果して今伯母も従姉も行方不明です。
おはずかしい事を申上げました。いつもお作を拝見しては親類中の御親しみ深い御様子を心から羨しく思っていたものですから、ついついぐちがこぼれました。おゆるし下さいまし。
あの一番町から上って行くお家《うち》に夏目先生がいらっしゃった事は私にとってはつ耳です。私は上野のはなれにいつから御移りになったのか何《なん》にも覚えておりません。ただ文学士というえらい肩書の中学校の先生が離れにいらっしゃるという事を子供心に自慢に思っていただけです。先生はたしか一年近くあの離れ
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