つて居る。私は此処に来ると只仕事をするばかりである。他の諸君も皆その通りである。もとこの発行所になつてゐる家を建てた人は、相当に建築道楽の人であつたと見えて、木柱なども可也贅沢なものが使つてある。然しそれらは私達の心を慰める程有効に役立つては居らぬ。木柱に罪があるわけではない。そこに住まつて仕事をして居る我等の心にゆとり[#「ゆとり」に傍点]が無くつて、それを愛賞する余裕を見出さないのである。我等が行き詰まるやうな心持で椅子に腰をかけて仕事をしてゐると、彼の貸二階の人々は同じくその狭い二階に膝をかがめ低い天井に背ぐくまつて、ゆとりの無い暮しをしてゐる様である。宜しく同病相憐れむべきであるが、其二階の人が高いところから我等を見下ろしてゐると気がつくと癪に障らざるを得ない。私は庭に様々な木を植ゑ並べてそれを防がうと苦心して居る。
俳句や文章を載せてゐる「ホトトギス」は読者に取つて息苦しいものではないであらう。けれどもそれを作るほととぎす発行所は相当に息苦しい場所である。我等は我等の力にあり余る位の仕事を此処でやつて行かねばならぬ。さうして気が飢ゑ神《しん》が疲れた時には仕事をするのが厭になつて、半ば眠つたやうな心持で時間を費すことも少くない。さう云ふ時に我等の気を引き立たせ我等の精神に鞭うつ或るものがある。それは外でもない、門前の小さい家に群生してゐる子供等で、此子供等は傍若無人に大きな声をして往来に活動して居る。往来は異論の申し立てやうもないが、我が発行所の門の所に四五人は愚か十人余りも佇んでゐて、それが喧々囂々《けんけんがうがう》として騒ぎ立てて居る。其中の三四人は並んで敷居に腰を掛けてゐるので、内から表の戸を開けようとしても開かぬ事がある。外から入つて来る時でもなかなかそこを退かうとはせぬ。いくら退けと云つても彼等は平然として腰を掛けてゐながら、じろじろと軽蔑の眼を以て人の顔を見て居る。時には表の戸を開けて庭の中まで闖入《ちんにふ》して来る事もある。彼等の親達はそれを見てゐて叱らうともしない。此方が表の戸を開けかねて困つてゐるのを見ても知らぬふりをしてゐる。発行所は六十坪足らずの地面に四十坪ばかりの建坪があるに過ぎないが、それがこの借家の並んでゐる中にあつては比較的大きい家なので、その小さい家に住まつてゐる人々の眼には、去年の嵐で倒れたのを仮修繕してゐる古びた板塀の発行所が余り愉快なものにうつつてゐないに相違ない。我等が神飢ゑ気疲れてテーブルの前に茫然としてゐる時に、気持よく我等の眠りを覚まし気分を引き立たせてくれるものは、この子供等の投げる石の音である。其石は丁度我等の頭の上の瓦に当つて戛《かつ》と鳴つたと思ふと屋根を転げる音がして庭に落ちる。と思ふ間に又た第二の奴が気持よく頭上の瓦に当つて痛快に脳天に響く。と同時に歓声が門前で起る。此場合「石を投げてはいけない。」と社員の一人が怒鳴る。その声が寧ろ間が抜けて聞える。これらの子供の親達は矢張り門辺に立つて其子供のする事を見て居るのであるが、例によつてそれを止めようとはしない。それよりも「石を投げてはいかぬ。」と云ふ、発行所の中から響く声の聞えた時に其眼は異様に輝く。
これらの人々が発行所の我等に対して何事をか危害を与へて遣りたいと云ふ様な、そんな気の利いた考を持つてゐるとは見えぬ。我等はそれらの店で煙草を買ふこともある。それらの家の者に使を頼む事もある。或時は物を与へる事もある。私達が表を通る時には愛嬌よく彼等は辞儀をする。彼等が自ら手を下して貧しき者から富める者――其実発行所は富める者ではない。その住める家も十人並より小さき者である。只不幸にして彼等よりも富み、彼等よりも大きい家に住み、さうして彼等に近く位置してゐる。――に鬱憤を漏らさうと云ふ程の考も無い。唯それが子供の手によつてなさるる斯《かか》る悪戯は彼等に於て痛快な事であるに相違ない。我等は又た時々頭上に響く其|礫《こいし》の音を甘受しながら漸く眠りに落ちようとする心から覚醒して仕事にとりかかるのである。その礫の音、人の往来を妨げる人垣、それらは我等に我慢が出来る。唯我慢が出来ないのは彼の建て並べられた貸二階から栄養不良な眼を光らせてぎろぎろと見下ろされることである。斯る意味に於て私は植木屋が枝ぶりの面白いと云つた松にも、これは十両とか二十両とかの値打ちがあると云つた槙にも、格別の執着を持たぬ。唯|冀《ねが》ふところのものは総べての木が目隠しの役目を全うして呉れることである。
但し貸二階は発行所の前面ばかりではなく、裏側にも横側にもある。発行所は殆ど二階に取り巻かれて包囲攻撃を受けてゐるやうなものである。其中に在つて発行所は独り平屋で頑張つて居る。
底本:「近代浪漫派文庫 7 正岡子規 高浜虚子」新学社
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