じたのであった。
居士に就いていうべき事はなお頗る多い。が、『ホトトギス』東遷後は世人の耳目に新たなることであるからここにはこれを省き、他日機会を得て別に稿を起こすことにしょうと思う。
十四
『ホトトギス』東遷後の居士の事業が俳句、和歌、写生文の三つであった事は前回に陳《の》べた通りであったが、その他居士は香取秀真《かとりほずま》君の鋳物《いもの》を見てから盛にその方面の研究を試み始めたり、伊藤左千夫君が茶の湯を愛好するところから同じくその方面の趣味にも心をとめて見たり、また晩年は草花類の写生を試みて浅井画伯などの賞讃を博したりしていた。ある時余が訪問して見ると居士は紙の碁盤の上に泥の碁石を並べていた。別に定石の本とか手合せの本とかを見て並べているわけではなく、ただ自分の考で白と黒との石を交りばんこに紙の上に置いているのであった。それまで殆ど碁というものに就いて何の知識もなかった居士はふと思い立って碁の独り研究を始めたのであった。ある時風が吹いたために折角《せっかく》並べた石が紙と共に飛んでしまって何もなくなってしまったというようなことを居士自身で文章にしたことがあったように記憶する。ある日四方太、青々《せいせい》、余の三人が落合って居士もその中に加わって、四人で五目並べをしたことがあった。それもその紙の碁盤と泥の碁石とであった。
居士の草花の写生は大分長く続いて、なかなか巧みなものであった。水彩画の画《え》の具《ぐ》で書くのであったが、色の用法などは何人にも習わず、また手本というようなものは一冊もなく、ただ目前に草花類を置いていきなりそれを写生するのであったから、色の使用具合とか何とかそういう形式的のことは一切知らずにやるのでちょっと見ると馬鹿に汚い、素人臭い感じのするものであったが、しかしその純朴な単刀直入の写生趣味になかなか面白いものがあった。
此の絵画の試みも、事実を写生するということが文芸の第一生命であるという居士の確信から来ているのであった。秀真君の鋳物を批評するのにもこの写生ということを極言して従来の型にはまろうとする上に警告を与えるのを常としていた。たとえば、『子規書簡集』にこういう歌が載っている。これは秀真君の鋳物の批評である。
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青丹《あをに》よし奈良の仏もうまけれど写生にますはあらじとぞ思ふ
天平のひだ鎌
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