中村|楽天《らくてん》君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万端出版上の面倒は楽天君の隠れたる努力であった。この頃余は『国民新聞』の俳句の選者を依頼された。
その頃余の一身上には種々の出来事があった。余は一時季兄を助けて芝に下宿を営んだ。それが緒についてから日暮里《にっぽり》に間借をして家を持ち、間もなく神田五軒町に一戸を構えて父となった。余は最早《もはや》放浪の児ではなくなった。出産の費用を得るために『俳句入門』を出版したり、小説めいたものを書いて今の『中央公論』の前身『反省雑誌』に寄せたりした。政教社と国民新聞から若干の給料を貰っていたがそれだけでは生計を支えるに足りなかった。
明治三十年の一月に伊予の松山で柳原|極堂《きょくどう》君の手によって俳諧雑誌が発刊された。それが実に我『ホトトギス』であった。計らずもこの原稿を認《したた》める日、在伊予宇和島の増永|徂春《そしゅん》君から左の手紙の写しを送って来てくれた。これは『子規書簡集』にも洩れているものであるからここに全文を掲げる事にする。これは『ホトトギス』第一巻第一号が出来た時の評言で当時の消息が大体これによってわかる。
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『ほととぎす』落掌、まず体裁の以[#「以」に「(ママ)」の注記]外によろしく満足致し候《そうろう》。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ「反古籠《ほごかご》」なども少き方|宜《よろ》しからんとわざと少く致し候|処《ところ》甚だ不体裁にて御気毒に存《ぞんじ》候。さて編輯の体裁に就きて議すべきこと少からず、乍失敬《しっけいながら》アア無秩序にては到底《とうてい》田舎雑誌たるを免かれず候。
第一俳諧随筆類と祝詞と前後したることは不体裁の極《きわみ》也。最初に発刊の趣旨を置き、次に祝詞祝句を載せ、その次に随筆類その次に俳句などにて宜しかるべくと存候。
発刊の趣旨は色紙を用いざる方よろし。色紙を用いるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿《はさ》むかまたは他の文と募集句との中間に挿むかしてその上は募集句広告ばかりにてものせたし。
第二募集句の第五等を四分詰にしたるも苦しそう也。これは小生兼て申上置《もうしあげおき》候通り多ければ下より御削り可相成《あいなるべく》候。御忘れありしか如何。もし出来得べくんば四等以上にも出たる人の句を削り、その外のかつかつ五等及第の句
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