たといってよい。その静かに方丈の室に閉じ籠《こも》っていわゆる野心を満足さするのもこれ、病苦を慰むものもこれ、純一|無雑《むぞう》の心持で一向専念に古俳句の研究、新俳句の主張にこれ日も足らなかった居士の眼から、その周囲に勝手気儘に行動しつつあった人々を見た時の心持はどうであったろう。剣呑《けんのん》でもあったろう、歯痒くもあったろう、片腹痛くもあったろう、残念でもあったろう。居士は飄亭君に対しても、碧梧桐君に対しても余に対しても、紅緑君に対しても、鼠骨君に対しても、殆ど何人に対しても、時としては鳴雪翁に対してすらも、直接もしくは間接に種々の忠言を試みることを忘れなかった。もう道灌山でお互に絶縁を宣言した間柄の余に対して居士はなおその事は忘れたように何かにつけて苦言を惜まなかった。余を唯一の後継者とする考はその時以来全く消滅したのであるが、しかし門下生の一人として出来るだけこれを引立てようとする考は以前と少しも変るところはなかった。
 余はいつもその事を思い出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着《しゅうじゃく》であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母が子を愛するようなものである。余の知っているある一人の寡婦《かふ》はただ一人の男の子の放蕩を苦にしながらもどうしてもそれを棄て去ることが出来ぬ。その親戚の多くはその子と絶縁してしまうことをその寡婦なりその一家なりの利益だとして時々忠告を試みるのであるけれども、寡婦は陰になり日南《ひなた》になりしてその子を暖き懐に抱きよせようとしておる。その結果その子は夙《と》くに堕落し切ってしまうはずのものがまだともかくそこまでの深淵に陥らずに踏み止まっておる。これは母の愛である。母の子に対する執着である。もしこの執着がなかったらその子は牢に入っておるかのたれ死をしておるか、いずれそういう結果になっているのはいうまでもないことであるが、同時にまたその母はただ一人の男の子をその手から失っているのである。曲りなりにもなお母一人子一人として互に頼り合っていることの出来るのはその母の執着――愛――の力である。これと同じ事で人の師匠となり親分となるのにも第一に欠くことの出来ぬものはこの執着である。弟子や子分は気儘《きまま》である、浮気である。決して師匠や親分が思っている半分の事も思
前へ 次へ
全54ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高浜 虚子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング