て余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽《ひ》きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。
このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。
それから何年後の事であったか覚えぬが、余は中学を卒業する一年半ばかり前、ふと『国民之友』が初めて夏季附録を出して、露伴の「一|口剣《こうけん》」、美妙斎《びみょうさい》の「胡蝶」、春の屋の「細君」、鴎外の「舞姫」、思軒の「大東号航海日記」を載せたのを見て、初めて自分も小説家になろうと志し、やがて『早稲田文学』、『柵草紙《しがらみぞうし》』等の愛読者となった。それから同級の親友|河東秉五郎《かわひがしへいごろう》君にこの事を話すと、彼もまた同じ傾向を持って居るとの事でそれ以後二人は互に相倚《あいよ》るようになった。それから河東君は同郷の先輩で文学に志しつつある人に正岡子規なる俊才があって、彼は既に文通を試みつつあるという事を話したので、余も同君を介して一書を膝下《しっか》に呈した。どんな事を書いて遣ったか覚えぬがとにかく自分も文学を以て立とうと思うから教を乞いたいと言って遣った。それに対する子規居士の返書は余をして心を傾倒せしめるほど美しい文字で、立派な文章であった。これから河東君と余とは争って居士に文通し、頻《しき》りに文学上の難問を呈出した。居士は常にそれに対して反覆丁寧なる返書をくれた。それは巻紙の事もあったが、多くは半紙もしくは罫紙《けいし》を一|綴《つづり》にし切手を二枚以上|貼《は》ったほどの分量のものであった。
子規居士は手紙の端にいつも発句《ほっく》を書いてよこし、時には余らに批評を求めた。余らは志が小説にあるのであるから更にこの発句なるものに重きを置くことが出来なかった。しかも近松を以て日本唯一の文豪なりと『早稲田文学』より教えられていたのが、居士によって更により以上の文豪に西鶴なるもののある事を紹介されて以来、我らは発句を習熟することが文章上達の捷径《しょうけい》なりと知り、その後やや心をとめて翫味《がんみ》するようになった。
二
余は一本の傘《からかさ》を思います。それはどうしたのかはっきり判らぬがとにかく進藤|巌《いわお》君が届けてくれたのだ。進藤巌君というのは中学の同級生であった
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