び暮らした。こういうと極めて暢気《のんき》なようであるが、実にその京都遊学の一年間は、精神肉体共に堪え難き苦痛と戦った時代であった。それは何冊かの日記になって今もなお篋底《きょうてい》に残って居る。吉田町の何とかいう開業医は余に一年間の静養を勧めた。けれども余は思い切って休学する勇気もなかった。
夏休み二カ月の放心は大分元気を回復して、今度は碧梧桐君と相携えて再び京都に出た。それから余は同好数人と共に回覧雑誌を創《はじ》めたり、小述作を試みて見たりした。鳴雪、飄亭の二君は相ついで吉田の虚桐庵またの名双松庵を訪問した。――余と碧梧桐君と同宿していた下宿を、他にも同宿人があるにかかわらず我らは僭越《せんえつ》にもかく呼んでいた。そうして俳句の友、謡の友は此処《ここ》を梁山泊のようにして推しかけて来た。――鳴雪翁の一句を得るに苦心|惨澹《さんたん》せらるると、飄亭君の見るもの聞くものことごとく十七字になるのとは頗《すこぶ》る我ら二人を驚かすものがあった。かくして直ちに文学者の生活に移るべく学校生活を嫌悪するの情は漸くまた抑えることが出来なくなって来た。かくしてその学年の終らぬうちに余は遂に退学を決行して東京に上った。
五
退学を決行して東京に上った余は大海に泳ぎ出た鮒《ふな》のようなものでどうしていいんだか判らなかった。関根|正直《まさなお》氏の『小説史稿』や、坪内逍遥氏の『小説神髄』や『書生気質《しょせいかたぎ》』や『妹背鏡《いもせかがみ》』や、森鴎外氏の『埋木《うもれぎ》』やそんなものを古書肆から猟《あさ》って来てそれらを耽読《たんどく》したり上野の図書館に通って日を消したりしながら、さて小説に筆を染めて見ようとすると何を書いていいんだか判らなかった。初めは鳴雪翁の監督の下に在る常磐会《ときわかい》寄宿舎に居たが、やがて子規居士の家に同居することになってからも居士の日本新聞社に出勤した留守中居士の机に凭《もた》れて見たり、居士の蔵書を引ずり出して見たりするばかりで、相変らずどうして文学者になるんだか見当が附かなかった。京都にいた時分は俳句の会合も羨望の一つであったのだが、上京後子規庵その他で催される俳句会に出席して見ると思うほどの興味もなく、かつて春休みに出京した時の句会ほど好成績も収められなかった。それに誰も皆気の毒そうな眼をして余を眺め、この道楽も
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