を高朗なる調子でうたう万葉の詩人をなつかしく思う。柱の下の瓶には薄紅梅が生けてある。その薄紅梅の花を見ると平安朝の大宮人を連想する。
海上ビルデングの建物が行幸道路を隔ててそびえている。すぐ近くには郵船ビルデングの大きな建物がのぞいている。
先刻見た古い地図の事が思い出される。それは寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。
その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。その屋敷も時代時代によって人が変っておるが、ただ変らぬのは鍛冶橋内、即ち今の東京市庁のあるあたりが土佐と阿波の藩邸であったことと今の鉄道省の敷地のあたりが細川越中守の邸であったことである。その他大藩の邸もあるにはあったが大概皆移動している。
わが丸ビルの所は寛永年間に松平新太郎の屋敷に当り、元禄年間は松平内蔵の屋敷と戸田兵部の屋敷に当り、文化年間は溝口駒之介の屋敷に当り、嘉永年間は織田兵部の邸に当っていたようである。
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六十銭のうなどんの食券を女中に渡す。
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その一つの大名屋敷の大いさは今の丸ビルよりはなお大きかったらしい。そうすると土塀か何かをめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。
その一つの邸のうちには勤番長屋もあったろう。勤番には妻子を連れたものもあろう。又中間若党の類《たぐい》も相応にいたろう。茶坊主、小姓|乃至《ないし》奥女中の類も沢山にいたろう。又家老その他の諸役人もいたろう。そうして大名は芝居でするように、厚座蒲団の上に座ってかたわらに脇息《きょうそく》を置いて澄ましていたろう。併しそれ等の人間は皆今の世の人のように、欲望、葛藤、術策、迷い、あきらめ等の渦の中にあったろう。今の世の姿そのままをそこに描き出したような世の中に住まっていたろう。人々の嫉妬、排他、小智、頑冥等は今目のあたり見るところと何の差異も無かったろう。そんな世界がくりかえし巻きかえし展開せられ閉じられ、展開せられ閉じられして今日に及んで来たものであろう。
それから又そのいつの時代を切り離して見ても、その時代の人はその時代の文明を一番立派なものとして賛美していたろう。たとえば今博物館内の表慶館に並べてあるような贅沢《ぜいたく》の限り
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