とになった。下駄《げた》は雪駄《せった》に替えた。それに下足《げそく》預り所の設備があった。雨の降る日は下駄を上草履に替えた。少しも不便を感じなかった。しかし和服のものは極めて少なかった。現に極めて少ない。何だかはじめの間は私自身が不調和に感じた。しかし今は何とも思わない。
 私自身が何とも思わないばかりか、周囲の人も何とも思わない。(であろうと想像しておる)
 そればかりか、春先や秋口になると、田舎の爺さま媼《ばあ》さま連中が丸ビル見物にくる。まずエレベーターの前に立って、
「あら上るだ、上るだ。」と傍若無人に口を開けて見ておる。やがて一つ自分も上って見ようと恐る恐る足駄《あしだ》をふみ入れると
「下駄の方《かた》は草履にお替え下さい。」と剣突を食う。何のことかわからず、暫くの間その辺をまごまごしている。こういう連中さえもこの頃では別に不調和な訪問者とも思わなくなった。
 ドンがなると丸ビルの各事務所から下の食堂めがけて行く人は大変なものである。各エレベーターはことごとく満員で、そのエレベーターが吐き出す人数は、下の十字路を通る群衆の中になだれ込んで、肩摩轂撃《けんまこくげき》の修羅場を現出する。これは少し仰山な言葉かも知れんが、兎に角大変な混雑である。私はこの状態を毎日のように目撃しながら
「斯《か》くの如くもまれにもまれて、古いもの新しいものはだん/\調和して行くのだ。」と考えてニヤリとする。そのニヤリとしている私は、忽《たちま》ち人にぶっつかり、横にはねとばされ、元来小男の私は、忽ち群衆の中に没し去られて存在を失ってしまう。
 漸く群衆の中から抜け出た私は、やっと食堂の片隅に椅子を見出してそこで空腹を充たす。弁当、すし、天どん、うなぎどんぶり、しるこ、萩の餅、そばなどの食堂もあれば、ランチ、ビイフステーキ、ポークカツレツ、蠣《かき》フライ、メンチボール、カツどんなどの洋食屋もある。この食堂になると、洋服に靴が跋扈《ばっこ》しているほど、洋食が跋扈していない。やはり日本人には祖先伝来の米の方が適しているらしい。そこで洋服の紳士(各事務室の重役連中は天辺《てっぺん》(九階)の西洋料理の方に天上するのだそうで、各階からここに天下るのは、主に雇人即ち洋服細民の部に属するということを誰かから聞いた。誰だ、洋服細民などというのは、よろしく洋服の紳士諸君と申せ)も空腹にな
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