も、母親も、だれもかれも、うすよごれて、このたいくつな味気ない町にしばりつけられてるようにみえた。
「東京へゆこうか?」
 三吉はふところから小野の手紙をだしてみるが、すぐまたふところにいれる。そのハトロン封筒の手紙も、気がすすまないのである。小野は東京で時事新報の植字部に入っていた。小野のほかに、熊本出の仲間であるTや、Nや、Kやも、東京のあちこちの印刷工場にはたらいていた。そして「時事にはいれるようにするから出てこい」と小野は書いているが、「時事はアナの本陣」で、小野は上京すると、同郷のTや、Kや、Nやも、正進会にひっぱりこんだと、得意で書いている。三吉もそこへゆけば正進会員にならねばならないが、それが厭《いや》である。なぜ厭なのか、理論的にはよくわからぬけれど、厭なのである。
 小野の上京以来、東京の空が急にせまくなった気がしている。――このうすよごれた町からほとんど出たことのない三吉は、東京を知らないけれど、それまでの東京からはまだ大学生の田門武雄や、卒業して間がない三輪寿蔵や、赤松克馬や新人会本部の連中がやってきた。彼らはサンジカリズムないしアナルコサンジカリズムの思想をふりまいてゆき、小野も、三吉も、五高の学生たちも、また専売局の友愛会支部の連中も、革命が気分的であるかぎり一致することが出来ていた。ところが東京から「ボル」がいちはやく五高の学生に流れこんでくると、裂けめがおこった。「前衛」とか「種蒔く人」とか、赤い旗の表紙の雑誌が五高の連中から流れこんでくると、小野のところには「自由」という黒い旗の表紙が流れこんできた。三吉はどっちも読んだが、よくはわからなかった。わかるのは小野の性格の厭《いや》なところが、まるでそこだけつつきだされるように、きわだって現われてきたことであった。
 小野は三吉より三つ年上で、郵便配達夫、煙草《たばこ》職工、中年から文選工になった男で、小学三年までで、図書館で独学し、大正七年の米暴動の年に、津田や三吉をひきいて「熊本文芸思想青年会」を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロポトキンを教えられ、ロシア文学もフランス文学も教えられた。土地の新聞の文芸欄を舞台にして、彼の独特な文章は、熊本の歌つくりやトルストイアンどもをふるえあがらせた。五尺たらずで、胃病もちで、しなびた小さい顔にいつも鼻じわよせながら、ニヤリ
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